第一章 異世界篇(免罪世界)

第5話 免罪の証明

 異世界への門を通り抜けた瞬間は、何とも不思議な感覚だった。空気の淀みが消えて、何処か懐かしい情緒が襲って来る。その情緒自体はとても新しい感覚なのに、鼻から吸い込む空気や、頬を通り過ぎて行く風が、少年の情緒を思い切り擽って来るのだ。「ここは、お前が望んだ世界。数多の人間が夢みる異世界である」と。異世界の詳細な情報(社会情勢や文化水準、魔力等の有無など)も一応気になったが……今は、そんな事はどうでも良い。一番肝心な事が分かりさえすれば、そんな事は後からいくらでも調べられる。

 

 栄介は道行く一人の男、見るからに善良そうな青年を見つけては、一応の警戒心を持った状態で、彼の近くに歩み寄り、その背中をわざとらしく蹴った。


 青年は、その痛みに驚いた。周りの人々も、奇妙な少年が商人の青年を蹴り付けた事に驚いている。彼らは目の前の光景に呆然としていたが、少年が常識の叱咤に怯え始めると(思考の方は、まだ元の世界から抜け出し切れていないようだ)、何かに脅えるような顔で、彼に向けている感情を「しまった」と改め始めた。


 青年は慌てて、目の前の少年に謝った。


「す、すまない! 俺が……その、ぼうっとしていた所為で。君も、本当は」


 蹴りたくなかったんだろう? と、続ける青年。その光景はあまりに異常だっただが、周りの反応から察する限り、それはごく普通の、少年に対する対応であるようだった。やった方は、悪くない。「悪いのは、それを促した自分の方である」と。被害者が被害者であるのを忘れ、加害者の悪行……正確には、少年の悪行を全肯定しているのだ。それには、流石の栄介も驚くしかない。


 栄介はその価値観に押し黙ったが、反応としては苦笑するしかなかった。


 青年はそれからも数回謝り、栄介が「もう、良いですから」と言った所で、嬉しそうに笑い、彼の前からそそくさと居なくなった。


 栄介は、邪神の隣に戻った。


 邪神はやはり、楽しげに笑っている。


「どうしたの?」


 に答えられたら凄い。それこそ、異常だろう。元の世界とは異なる価値観、異文化に触れた衝撃は、彼を黙らせるのに充分過ぎる程の威力があった。


 彼はその威力に怯え、そして、言い様のない高揚感を覚えた。


「ねぇ?」


「ん?」


「他の人も同じなの?」


 邪神の答えは、「ええ」だった。


「どんな種族も問わず。貴方は、倫理における最大の免罪……『罪の透明化』を手に入れたの」


「罪の透明化、か」

 

 それは即ち、「何をやっても許される」と言う事。「自分の罪が罪として認識されず、あらゆる悪行が全肯定される」と言う事だ。さながら神の如く。すべての悪は、純粋な無に塗り替えられる。塗り替えられた無は、元の姿に戻る事はない。それが本来持っていた本質に、新しい本質が上書きされてしまうのだ。「彼の欲望は、絶対である」と。足下から伝わって来る地面の感触……石畳の道路から感じる世界観は、その心的快楽をすっかり満たしていた。

 

 栄介は、その快楽に唯々酔いしれ続けた。ここはもう、自分の居た世界ではない。ご都合主義も真っ青の、すべてが自分のために用意された世界なのだ。自分の横を通り過ぎた生物も彼好み、どう見ても人間ではない。建物の二階から彼を見下ろす女性も、頭に付いている獣のような耳から、人間に限りなく近い種族、つまりは「亜人」である事が窺えた。

 

 栄介は、隣の邪神に視線を戻した。邪神も、彼の視線を見返した。二人は、互いの目をしばらく見合った。

 

 邪神は、周りの景色に視線を戻した。


「ご感想は?」


「良いね」


「そう?」と笑うホヌスも、嬉しそうだった。「気に入ってくれて何よりだわ」


 ホヌスは、彼の足を促した。


「服屋に行きましょう。その格好は、流石に目立つわ」


 そう言われて、「ハッ」とする栄介。目の前の世界に感動するあまりつい忘れていたが、そう言えばまだ、制服姿だった。青っぽい色をした上着に、チェック柄のダサいズボン。ズボンのベルトやネクタイはまあまあなセンスだが、学校指定の革靴は妙に古めかしかった。ワイシャツのそれは、まだ許せるとしても。これなら安い運動靴を履いた方が、まだマシである。思春期のど真ん中にいる彼としては。


 栄介は、彼女の促しに従った。


「そうだね。僕も、この服とは早くオサラバしたい」


「でしょう?」


 ホヌスは「クスッ」と笑って、自分の隣に彼を歩かせた。


 二人は周りの視線を受けながらも、表面上では気にしてない風を装って、町の道路をゆっくりと歩き続けた。


 栄介は、邪神の横顔に目をやった。


「ねぇ?」


「ん?」


「服屋に行くのは、良いけどさ」


 金はあるの? と、栄介は言った。


「ここの金はたぶん、どう考えても日本円じゃないと思うし。銀貨(だと思う)の代わりに100円玉を使うのは、かなり無理があるんじゃ?」


「そうね。でも」


 大丈夫、と、彼女は笑った。


「貴方には、無限の貯金があるから」


「え?」

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