第2話 憎き幼馴染

 授業が終わったのは(正確な時間は分からないが)、とにかく十数分後の事だった。「起立」から始まり、「有り難う御座いました」で終わる光景。普通の中学生なら、何の疑問も持たない光景だ。学校で一番の美少女……ん? それは、普通ではない? そんな美少女が、彼に話し掛けるなんて? 「ラブコメの主人公でなければ、有り得ない事だ」と? 確かにそうかも知れない。彼は異世界モノの主人公ではあるが、ラブコメの主人公ではないのだ。その意味では、ここに書いた疑問は正しい。正しいが、それは悲しくも現実なのだ。彼に話し掛けた美少女は、彼の幼馴染……そして、彼が最も嫌う女子生徒だった。

 

 栄介は彼女の笑顔に怒りながらも、表情には「それ」を決して見せなかった。


「どうしたの? さん」

 

 頼長よりなが亜紀あき、それが彼女の名前である。彼女はここのクラス委員であり、先程の「起立」や「有り難う御座いました」もみんな、彼女が言っていた。


「ごめんね、ちゃん。ちょっとお願いしたい事があるんだけど?」


「なに?」と素っ気なく応える栄介だったが、彼女の方はまるで気にしてないらしく、それどころか、男子だったら絶対に落ちる笑みを浮かべていた。「僕、そんなに暇じゃないんだけど?」

 

 栄介は机の中から参考書を取り出し、それで「これから自主学習するんだ」をアピールした。

 

 亜紀は、そのアピールにしょんぼりした。どうやら、クラス委員の仕事を手伝って欲しかったらしい。彼女の両手には(見るからに重そうだ)、職員室に持って行く大量の書類が乗せられていた。


「そっか、ごめんね。勉強の」


 邪魔をして、と言い掛けた所だ。今まで不機嫌だった栄介が、「分かったよ」と言って、自分の席から立ち上がり、彼女の両手から書類をすべて奪い取った。


「この前と同じ?」


「う、うん! それを職員室に持って行けば」


「分かった」と肯く栄介だが、その顔は明らかに疲れていた。「早く勉強したいから、さっさと済ませるよ?」


 栄介は、彼女の足を促した。


 彼女は「それ」に従って、その後に続いた。


 二人は周りの視線をまったく気にせず(栄介の方は、そうするフリだったが)、学校の職員室まで書類を持って行った。職員室の中では、教師が二人の事を待っていた。それがまるでいつもの事であるかのように。栄介が教師の机に書類を置いた時も、揶揄ではないが、それに近い表情を浮かべて、二人の事を「共同作業、ご苦労さん」と笑った。


 亜紀は、今の揶揄からかいに赤くなった。それも、耳まで真っ赤になる程に。それは独身の女性教師が、思わず悔しがる程の可愛さだった。正に「生きた萌え」、「二次元が二次元のままに三次元した美少女」。その美しさにうっとりしないのは、彼女の隣に立つ栄介だけだった。

 

 栄介は、心の苛立ちを隠した。その苛立ちが知られれば、自分は学校での居場所……とまでは行かないが、ある種の立場を失ってしまう。彼女との関係性が生み出したモノ、そこから生じた一種の特権が、闇の奥にすっと消えてしまうのだ。自分は、彼女の力に守られている。彼女はその美貌……いや、美貌もあるが、誰に対しても優しい態度から、多くの生徒達に慕われていた。それこそ、先輩、同輩、後輩を問わず。朝の登校時、自分の下駄箱をいつものように開けてみたらラブレターが入っていたなんて事も、決して珍しい事ではなかった。彼女は「美」と言う言葉では語り尽くせない、絶対的な美少女なのである。

 

 栄介は、その美少女が心底嫌いだった。彼女の力は言わば、慈悲。相手の心をおもんぱかる、慈しみの心だった。苦しんでいる人がいたら、放って置けない。それこそ、全力で助ける。彼女が関わって救われた人、救われはしなくても、何かしらの悩みを解決できた人は、決して少なくはなかった。彼女は、自分とは正反対の人間。善行を自然に行える人間なのである。だから、どうしても好きになれない。彼女のような人間を認める事も。

 

 彼女は人の善を信じているが、自分は人の善をまったく信じていない。今回の事だって、表面上では「手伝って欲しい」とお願いされているが、それは彼女に信頼されている証であり、その証がステータス、ある一種の格付けのようにもなっていた。彼女に好かれる(あるいは、好かれている)のは、特別な事。彼女の幼馴染である彼(おそらくは、好意を抱かれている)は、その特権階級者だった。

 

 彼が彼女に好かれている限り、女子達は安心して好きな男子に告白できる。一方の男子も、彼に危害を加える事は、同時に彼女から嫌われる事なので手出しできない。遠くから羨ましげに眺める事しかできなかった。それに加えて普段の彼も善人風なので、罵るにも罵る事ができない。正に彼女の力、様々だった。彼女が彼の事を好いている以上、この均衡は決して崩れる事はない。だからこそ……。

 

 彼は、その均衡が憎くて仕方なかった。自分の安寧が、彼女にすべて委ねられている現実に。悪を求める心が、善の鎖に繋がれている現状に。それらを分かっていながら、どうする事もできない自分自身に。怒るどころか、悲しむ事すらできなかった。彼女の気持ちを裏切って、自分の思うままに振る舞おうとしても……その時は恐らく、周りの目が許さない。

 今まで溜っていた鬱憤や嫉妬、陳腐な正義感が一斉に襲い掛かって来る。「今までのアレは、嘘だったのか?」と、正義の剣をぶんぶん振り回して来るのだ。そうなったら、元も子もない。遺憾ながらも唯一残っている心の自由が、完膚なきまでに踏み潰されてしまうからだ。それを壊されれば、悪の世界に浸る事もできない。異世界の闇に思いを馳せる事も。

 

 栄介は周りの視線(ほとんどが羨望の眼差しだ)に苛立ちながらも、表情はあくまで穏やかに、彼女と話す時にだけ、悪の片鱗をそっと見せ続けた。

 

 二人は並んで、二年六組の教室に戻った。

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