第2話 疑惑
子供たちは中学、高校、そして大学と、何のトラブルもなく順調に成長してゆき、そして二人とも手を離れ、普通に大人になった。
小さな疑惑が起こったのは、ちょうど次男が大学の四年生になった頃だったという。
『最初はほんの些細なことでした』
彼は言葉を続けた。しかし何だか辛いものを吐き出すような調子に変わっているように、俺には感じられた。
その年の暮れ、妻の勤め先で忘年会があった。
特別珍しいことでもなかったので、大して気にもかけなかったが、その日彼女は帰宅しなかったのである。
『次の日は日曜日で、私が一人で朝食を食べていますと、妻の携帯から電話がありましてね。”昨夜は少し呑み過ぎてしまって、同僚の家に泊まった。今日はこのまま出勤するから、ごめんなさい”と言ったんです。少々慌てているようにも感じられましたが、その時は”遅刻しそうで焦っているんだな”程度にしか感じないで、”ああいいよ。気を付けてね”と言って電話を切りました』
その日の夕方、彼女は帰宅したが、各別おかしなところはなかった。ただ何となく、声に今までになかったような調子があったように感じたという。
翌々日の火曜日、妻は帰宅が遅くなった。
定時より3時間は遅れていた。
”残業をしてたの、ごめんなさい”そういって謝ったが、この間感じた、何か不思議な”艶めいたもの”が、より強くなったように思ったという。
彼は”まさか、彼女に限って”と、自分の中に沸き起こりかけている、”
それから、度々妻は帰宅が遅くなったが、彼は自分の妻を疑うのは、下品だと考えようとした。
時はかなり経ち、翌年の盆休みに差し掛かる頃だった。
それまで彼の家では毎年夏になると、一家で、子供達が成長してからも夏にはリゾート地のホテルに出かけたり、彼や妻の実家に里帰りしたりしていたのだが、彼が何気なく、
”お盆、どうする?休める?”と訊ねたところ、妻は、
”ごめんなさい。どうしても休めないの。仕事忙しくて”と、すまなそうに答えた。
疑惑が一歩深くなったと思ったが、彼は無理矢理頭からそれを退け、
”そうかあ、売り場の総責任者になったんだものね。でも身体には気をつけてね”と答えを返した。
幸子は再度すまなそうに”有難う、ごめんなさいね。埋め合わせはちゃんとするわ”と言った。
結局、川田氏自身もお盆には急な仕事が入って忙しくなり、二人とも休めず、仕事だけになった。
お盆が開けたある日、彼は妻が鏡台の前で念入りに化粧をしているのを見た。
その日は店の方は臨時の定休日だったのに、”友達と約束しちゃったの”と答えたが、いつもとは違った色のルージュを塗り、マスカラをつけ、いつもは着ないような服を着ていた。
胸の中に沸き上がった疑惑は、止めようがない。
その日幸子はいつもより遅い帰宅をした。軽く酔っているみたいだった。
正一はたまらなくなって、まだ化粧も落としていない妻を求めた。
彼女は拒みはしなかったものの、それまでとは明らかに違っていた。
何だかまるで”演技”をしているような、そんな風に感じたのである。
終わってから、幸子は正一の顔をまともに見ようとせず、そそくさと風呂に入りに行ってしまった。
同様の事はその後も何度かあった。
拒むことは決してない。
だからといって、彼との交渉を望んでいるという、そんな風には感じられなかった。
『奥さんの同僚に確かめたりとか、そういうことはなさらなかったんですか?』
俺の問いに彼はかぶりを振り、
『そうなっても、私は妻を信じていたい。そういう気持ちがあったんです。だからそんなことは一切しませんでした』
そして、翌年、次男が大学を卒業し、神奈川県の企業に就職して、社員寮に移り、夫婦二人きりの生活になった。
しかし、その後しばらくの間は、特に変わったことは何もなかった。
幸子は当たり前の妻であり、彼も一安心した。
その年のゴールデンウィーク、彼は珍しく長期休暇が取れたので、妻にその旨を伝えたところ、
”私、友達と旅行に行きたいの”と、素っ気ない口調で答えた。
何でも店の同僚が軽井沢に別荘を借りていて、そこに来ないかというのである。
”僕も一緒に行ってもいいかい?”と聞くと、彼女は一段とトーンを上げ、
”女性ばかりしか来ないのよ。男性の貴方が来ても面白くないでしょう?”と言った。
”何故だ?僕がそんなに邪魔なのか?”そう言ってやろうと思ったが、言葉を喉の奥で呑みこみ、
”仕方ないな。じゃ、気を付けて言って来なさい”そう答えるしかなかった。
だが、疑惑の黒雲は決定的になった。
彼女が旅行に出かけた日の夕方、一緒に旅行に出かけた筈の同僚から電話がかかって来た。
”え?幸子と軽井沢に行ったんじゃなかったんですか?”正一の問いに、その友人は驚いたような声で、
”私は別の用事で職場に残ったんですよ。”という。
頭を何かに打ちのめされたような感じだった。
連休明けに妻は何気ない調子で帰って来た。
”軽井沢土産よ”といって、彼にクッキーの缶を渡してくれた。
その時の態度もまた素っ気ないものだった。
次の日、正一は外回りに出るからと言って、夕方妻の職場に行ってみた。
じっと待っていると、通用口から彼女が出てきた。
しかし、一人ではない。
隣には背の高い、色白の若者が立っていた。
幸子はその男性に寄り添うように歩いてゆく。
彼女が見せた顔は、これまで正一や、そして家族にも見せたことのないものだった。
その晩、妻は遅くに帰宅した。
”何処へ行っていたんだ?”
強い調子で詰問した。
”友達と呑みにいってたのよ。たまにはいいでしょう?”棘のある答えが返って来た。
”男か?”
彼女は一瞬言葉に詰まったが、すぐに
”そうよ。同じ職場にいる、新人の若い子よ。色々と相談に乗ってあげてただけ。上司なんだからそのくらいするわよ”
それが最後になり、その日から、二人の冷戦が始まった。
彼女は必要最小限の言葉しか夫にしなくなった。
正一もこれ以上の破綻を恐れ、何も聞かなくなった。
怖かったが、彼は自分の手で色々調べてみた。
妻の職場の同僚に訊ねたところ、その男性は名前を
何でも彼は大学を卒業して、妻の職場に就職し、色々と親身に面倒をみてやっていたという。
もう疑惑は止めようがなかった。
しかしそれを問い糺して、家庭が崩壊するのが恐ろしかった。
そんなことはしたくなかったが、妻のスマートフォンを調べてみた。
(パスワードは予め調べて置いた)
不安はまた一つ積み重なった。
幸子はラインで度々柴田とやり取りしており、その内容はただの部下と上司のそれではないことも判明してしまった。
正一は荒れた。
呑めない酒を煽り、泥酔して帰宅した。
妻は普通に接してはいたものの、その態度は以前より遥かに冷ややかだった。
そうして、それはある日突然起こった。
帰宅した彼が見たものは、妻の置手紙だった。
”当分家には戻りません。職場にも休職願いを出しました。また連絡します。幸子”
そんな素っ気ない言葉が書かれていた。
果たして妻は戻らなかった。
三日、五日、七日、そして半月・・・・
戻って来た彼女は前よりよそよそしく、しかし艶っぽくなっている。
一言も口を聞かず、それから一週間経ち、彼女は正一に一枚の紙を突き付けた。
離婚届だった。
”離婚してください。私、退職しました。遠くに行きます”
彼女はそれだけ言い置くと、手回りの荷物だけをバッグに詰め、家を出て行った。
職場に行って調べてみると、彼女はそれよりも一か月も前に、既に退職届を出していたという。
柴田陵も退職していた。
彼は実家の仕事(家具店だという)を継ぐために、故郷の富山県に帰ったという。
当然、幸子も一緒だった。
本来ならば直ぐにでも後を追えばよかったが、元来気の小さい彼は打ちのめされていて、それ以上何もする気が起きなかった。
結局彼は、妻の署名と印鑑のある離婚届に署名捺印の上、役所に提出した。
人生でこれほど打ちのめされたのは初めてだった。
結局、彼は60歳、妻は58歳。
29年と少しの結婚生活だった。
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