おとうさん、ごめんなさい
冷門 風之助
第1話 手紙
◎この一編を尊敬する漫画家A氏に捧げる・・・・氏からのeメールによる真摯なお返事と、著作からの示唆がなければ、この作品は生まれなかった◎
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『まず、これを見てください』
彼は
ここは、目黒区にあるオフィスビルの5階。彼が社長を務める、(とはいっても、社員は彼を含めて6人しかいないが)建築設計事務所の社長室である。
弁護士の平賀市郎君からの紹介だった。
”僕の知り合いから回って来たんですがね。何だかひどく気の毒な事情があるみたいなんですよ。相談に乗ってあげてくれませんか”と、こうである。
そんなわけで、まあ話を聞くぐらいならと、ここまでやって来たわけだ。
『拝見します』俺はそういって、目の前に置かれた封筒を手に取った。
彼の名前は川田正一、今年で69歳。大手の建設会社を退職後、この事務所を立ち上げて、もう3年になる。
低い身長を地味な茶色のスーツで包み、きちんとネクタイを締めている。
特別肥っている訳ではないが痩せてもいない。温和そうな丸顔、ごく普通に見かける中高年。街中ですれ違ったとしても、多分誰も気が付かないだろう。そんな男だった。
俺は手に取った封筒をよく見る。
表書きにはこの事務所ではなく、川田氏の自宅の住所がワープロで印字され、裏面には同様に、やはりワープロの文字で、
”富山県〇〇市××町、医療法人育寿会・特別養護老人ホーム、陽光の里
ケアマネージャー、田中博”と宛名が記してあり、その横にボールペンで、
”本村幸子様よりご依頼”と付け加えてあった。
『本村というのは妻の旧姓です』
彼は自分で淹れて持って来た湯飲みから、ゆっくりと緑茶を啜り、ため息とともにそう言った。
『中を拝見してもよろしいですか?』俺が言うと、彼は黙って頷き、膝の上に両肘を載せる。
俺は丁寧に鋏で切られた封筒から、便せんを取り出して開いた。
二枚だったが、そこには拙い、というより、もう殆ど判読するのがやっとというような平仮名だらけの文章で、こうある。
”おとうさんごめんなさい。しょういちさんごめんなさい。わたしをゆるして。おとうさんごめんなさい。しょういちさんごめんなさい。わたしをゆるして ”
それだけの言葉が二枚の便せんに、殆ど句読点をつけずにびっしりと綴られており、最後にやはり平仮名で、
”かわだ さちこ”と記してあった。
ミミズの這ったような、という表現がそのまま当てはまるような、読みにくい文字である。
ボールペンのインクが、ところどころ何かのシミで歪んでいた。
目を上げて、俺はもう一度川田氏を見た。
『妻の・・・・いえ、正確には”元”妻の字です。妻は子供が産まれるまでは私を”正一さん”と呼び、その後はずっと”お父さん”そう呼んでいました。』
彼は”元”というところを、ひどく強調して言った。
『妻とは今から五年・・・・いや、十年だったでしょうか。とにかく随分前に離婚しました。あまり言いたくないのですが、理由は彼女の不貞です』
また眼鏡を外し、ハンカチで拭いた。
『私が彼女と結婚したのは、今から三十年ほど前の事です』彼は訥々とした口調で、ゆっくりと語り始める。
『私は御覧の通り見た目も冴えませんし、あまり口も上手くなく、お洒落でもありません。女性とまともに付き合ったことなんか、30になるまで全くありませんでした』
煙草はもとから喫わない。酒は限りなく下戸に近く、300mmℓの缶ビールを一本空けるか空けないかで寝込んでしまう。
ギャンブルもやらないし、無論女遊びなど一切したことがない。
趣味と言えばせいぜい下手な水彩画を描くことと、読書くらいのもの。
そんな彼の事を心配したのか、以前勤務していた建設会社の上司が見合い話を度々持ってきてくれた。
『しかし、ご存知の通りですからね。三回見合いして、三回とも駄目でした』
一度目は写真と釣書の段階で駄目で、後の二回は会うところまでこぎつけたものの、向こうからいとも簡単に断られた。
理由は遠回しだったが、本当の所は、
『見かけが冴えない』
『背が低い』という、ありきたりな理由だったという。
そして、
(これを最後にしよう。これが駄目だったら、もう一生結婚はすまい)そう思って、四度目に紹介して貰ったのが、本村幸子だったという。
彼はその時の見合い写真だといって、手札大の写真を取り出した。
どこかの庭で写したものだろう。
ブルーのツー・ピースに身を包んだ女性がこちらに向かって立っていた。
肩の辺りまで伸びた、癖のない黒髪、化粧も控えめで、地味だが明るい雰囲気の、何処にでもいる女性だった。
『彼女は私の上司の友人の娘でしてね。短大を出た後、ある会社で経理の仕事をしていました』
(どうせ駄目だろう)
半ば諦め気味で臨んだ見合いだったが、結果は意外なことに、向こうは彼のことを気に入ってくれ、上手く婚約、結納、そして結婚という運びになった。
正一がちょうど30歳、幸子は二歳年下の28歳だった。
『妻は地味な性格ですが、とても優しくて気の付く、素敵な女性でした』
何でも彼女の元には随分沢山の男性から見合いの話があったそうだが、その全部を断わり、川田氏を選んでくれたという。
『その言葉だけで、私は感激でしてね。”よし、この女性を一生大切にしよう”そう思ったものです』
結婚生活は順調、というか、平凡そのものだった。
川田氏は妻を誰よりも愛し、そして大切にした。
結婚しても仕事を続けたいという彼女の意志を尊重して共稼ぎとなったが、積極的に家事も手伝ったし、暇があればあちこちに連れて出かけたりもした。
そのうちに男の子が二人相次いで産まれたが、元々子供好きだったこともあって、彼は育児も率先して手伝った。
『別に自慢するつもりはありませんが、夫としても、そして子供たちの父親としても、そんなに悪い方じゃなかったと思っています』
子供が産まれても、妻は産休の一時期を除いて働いていた。
彼女が勤めていたのは、家の近くにあった大規模家具店で、彼女はそこでフロアの副主任にまでなっていたという。
子供たちは二人とも真面目で成績も普通。まあ、当たり前の家庭だった。
『従って妻とは結婚してから27年間ほとんど
『あっちの方はどうだったんです?』
俺は不意に訊ねた。
『え?』
『つまりは夜の事ですよ。』
こんなことを訊くのは
川田氏はしばらく考えてから、また茶を一口啜り、答えた。
『ウソをつくのは嫌いですから、正直にお答えします。先ほどもお話したように、私は妻と結婚するまで女性を知りません。つまり童貞でした。従ってセックスはお世辞にも上手だったとはいえないでしょう。ですから妻・・・・幸子が満足をしていたかというと、いいえと答えるしかないでしょうね。でも彼女はそのことで不満らしい不満を述べたことは一度もありませんでしたし、子供を作ってからも、そこそこ交渉はありました。私は彼女が隣にいてくれるだけで良かったし、彼女もそれで満足している。そう思っていたんです』
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