3 理想のひとが暮らした世界。面妖なる「みうみう」の鳴き声
狭い通りの両側に並ぶのは、我が家を含めて、いずれも背の低い木造の古びた家屋ばかりだった。連子格子が美しい町家や、焼杉の腰板が張られた土蔵の連なりが、路面に濃い影を落としている。
お隣の家は、渋墨塗りという方法で黒く塗られた板塀に囲まれていて、その塀の上からは枝ぶりの見事な赤松が姿をのぞかせていた。
この風景は自動生成ではなく、「お富さん」という古謡の歌詞を参考に僕がわざわざコードを書いて構築したものだ。お隣さんも、そして造った僕自身も気に入っている。
この
文化の基本パターンを
このような世界に憧れるきっかけとなったのは、実家で見つけた古いアルバムだった。そこには、祖母の祖母の……遥か昔の先祖らしい女性の暮らしが、何枚も写し撮られていた。
幸せそうな笑みを浮かべた彼女。その横顔は息を呑むくらいに美しかった。この美貌をわが家系は、一体どこで置き忘れて来たのだろう? 僕の平凡な顔に、その面影などかけらもない。
この空間に彼女を出現させようかと、僕は何度も考えた。
しかし今に至るまで、決断はつかないままだ。外見だけなら、写真から取ったデータで再現はできる。しかしあの美しい笑顔を、その内面を伴わずに再現できるとはとても思えなかったのだ。
結局、キャプチャーしておいたアルバムの写真群を仮想環境生成の参考資料としてシステムに食わせる、今のところはそれだけにとどまっていた。隣の浮絵さんには、若干その面影が反映しているような気もする。
ここで陶芸を始めたのも、写真の彼女が趣味としていたらしいことに影響されたのだった。
ろくろの前に座り、回転する粘土を両手で押さえ込んで高く延ばそうとしている彼女は、写真の中で生き生きとした表情を見せていた。その気持ちを少しでも知りたいと、僕は思ったのだった。
そういうわけで、彼女が暮らしていたその美しい世界だけを、今のところあくまで彼女抜きで作り上げたという形になっていた。それでも僕は、深く満足していた。自分一人が生活するためだけの環境としては、オーバースペックなくらいだった。
「お出かけですか」
声を掛けてくれたのは、「見越しの松」の下でほうきをかけていた、絣の着物を着たおじさんだった。お隣のご主人である。この人物も自動生成で、僕が造り込んだのは家のほうだけだった。
「ええ、ちょっとそこまで。それにしても今日は、朝からずいぶんな暑さですね。門掃き、お疲れ様です」
「いえ何、毎日のことですから」
お隣さんは額に手をかざし、目を細めて空を見上げた。
「今日はちょっとばかり、お陽さまが元気なようですが」
「まったくですね」
僕もうなずいて、空を見る。
見事に真っ青な夏空は、吸い込まれてしまいそうな位にどこまでも高く、深かった。視界を横切って飛ぶ銀色のジェット機と、その豆粒のように小さな機体の後ろに伸びる飛行機雲の白さが、空の濃さをより強く感じさせるようだ。
あの機体の中に果たして人が乗っているのかどうか、そこまでシステムが情報を作り込んでいるのかまでは分からなかったが。
「そう言えば近頃、この界隈で度々おかしなことが起こりますな」
そうお隣さんに言われて、僕は内心ぎくっとした。仮想空間のエラーに気付いているのだろうか。
「そうですか、例えばどんな――」
「昨日なんかね、軒先に吊っておいたアジの干物が、少し目を離した隙に消えてしまいましてね。茶色い生き物が走り去るのがちらりと見えましたが、どうやら奴の仕業らしい。あれは何者なのか。夜中に屋根の上から『みうみう』と奇妙な声が聞こえるのも、恐らくは奴の鳴き声でしょう」
猫だろそれ、と僕は思わず声を上げそうになった。
しかし、考えてみればこの空間内で犬や猫を見た記憶はない。
空を飛ぶ渡り鳥の群れについては、あくまで風景の一部としてデータが定義されていたが、動物については特に設定を行ってはいなかった。もしかすると、いつの間にか猫も自動生成されたのだろうか。
「それはなんとも、面妖なことですね」
と僕は真顔を維持したまま、うなずいた。
「ええ、虎の子供のようにも見えましたが、もしそうだとすると先々危険ですからな。そのうち、ささみ肉でも使っておびき寄せてみるつもりです」
猫は知らないのに、虎については知っているらしい。
「そうですね、僕も気を付けるとします。それでは、ごきげんよう」
僕は帽子を取って頭を下げると、ポリタンク片手に再び歩き始めた。
(第4話へ続く)
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