2 仮想物理に謎のエラー、僕は灯油を舐める

 僕がこの仮想空間内で過ごし始めてから、もうかなりの期間が経過していたが、こんなことは今まで一度も無かった。

 平穏な暮らしに水をされたような気がして、僕は落ち着かない気持ちのままに、家の中を確認して回った。何か振動現象による被害が出ていないか、不安だった。


 一番心配だったのは、作陶用のアトリエとして使っている土間の状況だ。

 しかし、あれだけの振動を受けたはずのに、土間に置かれた乾燥棚の上に並んだ作品たち、湯飲みや茶碗の形をした粘土には欠けたり割れたりした形跡はなかった。

 やはり、描物系レンダラーのトラブルによって僕の側からの見え方に異常が起きただけで、物体が存在する物理座標系の上では振動など発生していなかったようだ。


 僕はほっとしながら、それら作りかけの器を手に取った。

 ろくろの腕前が上がるにつれて、器を薄く、軽く仕上げることができるようになってきていたが、焼く前の素地きじの状態ではその分もろく、壊れやすくもあるのだった。

 この粘土の器を灯油窯を使って低めの温度で素焼きしてやり、さらに焼き上がった器に釉薬ゆうやくとかうわぐすりと呼ばれるガラス質の薬品をかけて、それをもう一度高温で焼いてやると、焼き物が完成することになる。

 先ほど浮絵さんに言ったとおり、今日はその素焼きを済ませてしまう予定なのだった。


 気を取り直して、僕は灯油窯の準備に取りかかった。

 まずは燃料を補給するため、灯油が入っている赤いポリタンクを倉庫から運んでくる。ところがキャップを開いた途端、僕はある違和感を感じた。

 油の匂いがしない。タンクの中をのぞき込むと、そこにはちゃんと透明な液体が満たされているのだが、灯油の匂いがしないのだ。


 試しにタンク内の液体を指先へと付けてみたが、どうも手触りが違う気がする。鼻紙にしみこませて、マッチで火を点けてみると、これも点かない。最後には思い切って、指先に付けた奴をぺろりと一舐めしてみた。

「こ、これは……」

 思わず僕は独りつぶやく。何の味もしない。どう考えても、これは水だ。


 原因は全くの不明だったが、昨日まで灯油だった液体は、ただの水に変わっていた。現実世界では、絶対に起こりえない現象だ。

 仮想物理の組成データが何らかのエラーで書き換わってしまった、解説としてはそういうことになるだろう。先ほどの振動現象と何か関連があるのか、残念ながら携帯コンソールの簡易な診断機能ではそこまでは分からない。


 原因はともかく、これでは素焼きの作業に入ることができなかった。とりあえず僕は、駅前のガソリンスタンドまで行ってみることにした。そこで灯油が入手できればそれで良し、駄目なようならば、この世界からのログオフを行って、メインコンソールによるシステムのフルチェックを実施する必要が出てくる。


 縁側や裏口の戸締まりを済ませた僕は、リュックを背負い、片手に空にしたポリタンクを下げて、日よけの麦わら帽子を被った。

 雨戸までは、まあ閉めなくとも良いだろう。そもそも鍵など掛けなくても、泥棒が入ることなど無いはずなのだが、それでは近所のみなさんに不用心だと怒られてしまう。


 正面の玄関から外に出ると、頭上の太陽が先ほど以上に強く照りつけてきた。麦わら帽子程度では当然この熱気を防ぐことは到底できず、たちまちに全身から汗が噴き出してくる。

 建付けの良くない引き戸を引きずるようにガラガラと閉め、引っ掛かり気味の鍵をどうにか回し切って、これでようやく出発である。

 リアリティを出そうと、わざわざボロめに構築したのだったが、ちょっとやりすぎだったようだ。おかげで外出の際に毎度苦労させられることになってしまっている。いずれ、かんなをかけておこう。

(第3話へ続く)

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