【完結】この世界を守るために ~リアル・ワールド往還記~
天野橋立
1 全ての始まり、仮想空間に異常の生じたこと
「おはよう、
頭上から、声がした。
見上げると、足元を流れる水路のすぐ向かいに建つ古びた木造家屋の窓から、白いブラウスを着た若い娘が僕を見下ろしていた。
まだ朝の七時だというのに、夏の太陽はすでに全力で地上を照らしていて、辺りはうるさいほどのセミの声で満たされている。
「ああ、涼しいぞ。君も降りてきたらどうだい? サイダーも冷えてるよ」
と僕は答える。整然と敷き詰められた切石の上を流れる、澄んで冷たい水に、サイダーの瓶が数本沈んでいる。かごに入れたまま浸けて、冷やしておいたのだった。
幕藩体制の時代に殿様が作った、という設定になっているこの古い石組みの水路は、集落内における生活用水として炊事などに用いられていた。
「いいなあ、サイダー。でも今から学校行かなきゃ、私。部活があるの」
「大変だね、高校生も」
「忙しいのよ、結構」
彼女、柳沢浮絵はそう言って笑った。確か、今年で二年生だったはずだ。
色白で細面のその顔は、女子高生とは思えないような大人びた雰囲気を漂わせていた。こういう子を隣人として自動生成させるとは、仮想空間システムもなかなか気が利いている。
「おじさんは、忙しくない? 今日は『ろくろ』やらないの?」
浮絵さんの言う「ろくろ」とは、僕の趣味である陶芸のことを指していた。彼女にも何度か、出来上がった焼物をプレゼントしたことがある。
「ああ、今日は作った器を焼くつもりだよ。あと、僕はまだ二十九歳なんだけど」
「来月で三十でしょ? どちらにしても、おじさん」
毎度おなじみのやり取りに、彼女はまた笑う。
反論しようとしたその時。滑らかだった水面に漣のような模様が走った。水路の石組み、立ち並んだ家、その輪郭が何もかも激しく振動し始め、ブレて見える。地震? まさか、そんなはずは。
「あれ、ごめんなさい。怒っちゃった?」
浮絵さんは、全く異変に気付いていない様子だ。激しく振動する窓の木枠に両手を掛けた彼女の顔もまた、ブレのせいでぼやけて見えた。
「いや、そんなことはないけど……」
と言いながら、僕はポケットに手を突っ込んで携帯コンソールを取り出そうとした。仮想空間のシステムに、障害が発生しているようだ。
平気そうな彼女の様子からすれば、この空間内に実際に振動が発生しているのではなく、あくまで僕の側からの見え方だけの問題である可能性が高かった。
携帯コンソールに表示されたアラートを確認すれば、状況はわかる。しかし、ポケットの中は空だった。携帯を部屋に置いてきたようだ。
「じゃあ、私行くね。またね」
彼女はそう言って小さく手を振ると、部屋の奥へと消えて行った。僕も急いで家の中へと引き返す。
何もかもがブレて二重に見える状況で、水路からの急な石段を上がるのは大変だったが、どうにか裏口まで戻ることができた。
携帯は、畳敷きの茶の間に置かれたちゃぶ台の上、焼き海苔やお茶っ葉の入った缶の傍らに転がっていた。
折り畳み式の本体を開くと、白黒の液晶ディスプレイに、やはり警告メッセージが表示されている。注意報レベルだから、そんなに深刻な状況ではなさそうだが、エラーコードから判断すると
vモードボタンを押して、操作メニューを呼び出した。幸い、手の中にある携帯は振動現象の影響を受けておらず、文字を読み取るのに問題はない。
プチプチと数字キーと十字ボタンを押してメニューを選択し、同期設定のプロパティを「強制」に切り替える。視力0.8相当へと、わずかに視界のクリアさが低下するが、とりあえずの応急措置だ。
辺りが、急に静まりかえった。振動はぴたりと止んでいた。僕は、深いため息をつく。まだ視界が、ブルブルと震えているような気がした。
(第2話へ続く)
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