第2話 12月23日

 きっかけは、父の転勤だった。

 高校二年の夏のこと。十六年間、北国の田舎で育った私が、急に東京の高校に通うことになった。それまで、一年の半分を銀世界で過ごしていた私が、いきなりコンクリートジャングルに連れてこられたのだ。カルチャーショックなんてものじゃない。見るものすべてが刺激的だった。

 ただ、決していい刺激ばかりではなかった。

 新しい高校に通い始めたその日、私は思わぬ壁にぶち当たることになった。それは、コンクリートよりも堅くて冷たい壁に思えた。その壁は私を閉じ込め、東京という街で私を孤立させた。そのころの私には、高く聳え立つ見えないをぶち壊そうという気概も、よじ登ろうという逞しさもなかった。


 そして、段々と地元の友達との連絡も途絶えてきたころ、東京に冬が訪れた。

 東京に来て初めての冬。クリスマス前の東京は想像以上にきらびやかで、夜も昼間みたいに明るくて目眩がするほどだったのをよく覚えている。

 そんな中に、彼はいた。駅前にある大きなクリスマスツリーの下で、彼はアコースティックギターを携えて立っていた。まるでハリネズミのような、ツンツンと立った茶色く短い髪。耳にはピアス。クリスマスツリーのイルミネーションがあるとはいえ、昼間でもないのにサングラスをかけた姿は、私には衝撃的だった。でも、もっと私が驚いたのは、そんな彼の口から流れ出て来た繊細な歌声だった。

 巧みに弦を操る指先の滑らかな動き。心の中にしみ込んでくる透き通るような歌声。真摯に歌う姿。英語の歌詞は何を詠っているのか私には理解できなかったけど、それでも伝わってくるものがあった。ときに情熱的に、ときに切なく。歌に乗せた彼の気持ちが、心に響いてくるようだった。

 気づけば、私の周りには人だかりができていた。皆、一言も発すること無く、聞き惚れていた。

 それは、東京に来て初めての静寂。そこだけ都会の雑踏が消え、彼の奏でる音だけが存在しているようだった。

 懐かしい、と思った。すっかり遠い存在になってしまった故郷を思い出した。雪で真っ白に染まったあぜ道を、大空高く羽ばたく白鳥の鳴き声に耳を澄ませて家路に着いたころ……。

 だからだろう、私は学校の帰り道に彼の歌を聴きにくるようになっていた。

 そんなある夜。忘れもしない、十二月二十三日。祝日で学校が休みだった私は、初めて私服で彼の前に立っていた。


「今日は私服なんだね」


 ギターをチュー二ングしていた彼が、突然放ったその言葉。それが、私へのものだとすぐには気づけなかった。


「いつも、一番最初に来てくれるよね」


 ありがとう、と言いながらサングラスを取った彼の目が私を見つめていた。初めて見た彼の切れ長の目。イルミネーションの光が映りこんだ瞳はキラキラと輝いていた。ドキリと胸がときめいて、そこでようやく、彼が私に話しかけているのだ、と気づいた。


「高校生、だよね?」


 私は戸惑いつつも、こくん、と頷いた。


「この辺りの高校なの?」


 私は首を横に振った。

 顔がじわじわと熱くなっていくのを感じた。顔一面がしもやけにでもなりそうだった。彼が話しかけて来ているこの状況に、現実味がなかった。テレビの中の人が話しかけて来ているような感覚だった。


「そっか、家が近くなんだ。それで、いつもここを通りがかるんだね」


 ──違う。初めて彼の歌を聞いた日、電車の中で気分が悪くなった私は、偶然、ここで降りたのだ。それから毎日、この駅で降りていたのは、彼の歌を聞きたかったから。

 でも、私は何も言えなかった。俯いたまま、黙り込んだ。

 心臓の音がどんどんどんどん速くなっていく。呼吸が荒くなっていく。落とした視線の先で、手がガタガタと震えていた。緊張とか、そんな生易しいものじゃない。それは、『発作』だった。

 言いたかった。『あなたの歌が好きだから、いつもここに来るんです』って。彼がいつも歌でそうしているように、私も言葉に乗せて気持ちを伝えたかった。

 でも、私には出来なかった。声を出そうとすると、頭の中で笑い声が響き出す。教室中に響き渡った同級生の笑い声が蘇ってくる。

 脳裏にまざまざと浮かび上がるのは、朝日が差し込む教室の光景。興味深げにこちらを見つめるクラスメートの顔がずらりと並ぶ。


 引っ越してきて初めて高校に通った日。ホームルームで自己紹介した私に、クラスの皆は笑顔で迎えてくれた。前の晩に、何度も何度も浴室で練習した自己紹介。気の利いたことは言えないまでも、当たり障りのない妥当なものにはなった。温かな歓迎ムードにも包まれ、緊張が安堵に変わった。でも、ほっと一息ついたのもつかの間、すぐに私は違和感を覚えた。歓迎のものと思われた皆の笑いから悪意が感じられたのだ。ヒソヒソと私のセリフを真似する声も聞こえてきて、すぐに気づいた。それが嘲笑だと。

 自分の『方言』というものを意識したのは、それが初めてだった。

 それからというもの、私が何か話そうとするたび、周りからクスクスと笑う声が聞こえてくるようになった。私の喋り方が、よっぽどツボにはまったらしかった。何度も何度も、そんなことが続いて、とうとう私の身体は声を出すことを拒否するようになった。息すらできなくなるほどに喉をしめて、『発作』は私から声を奪ってしまった。

 まさか、東京に来て、『言葉の壁』に直面するとは思ってもいなかった。

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