第3話 雨夜に月は浮かばない

「よかった、目、覚めた?」

「――――っ!!!?」


 起きたとき、目の前にいきなり人の顔があったら誰でも驚くと思う。だから、わたしがつい彼女から離れようとしたのも無理はないことだった。

 けど、すぐに止められてしまった。

「あ、まだ動かない方がいいよ? すごい熱だし、倒れたときに頭打ってるかも知れないし……!」

「? 倒れ……?」


 その言葉を聞いたときに、ふと頭に蘇ってきたのは、橋から線路を見下ろしていたときのこと。いろんな人の家に泊まって、そのたびに家と変わらないような目に遭って、何もかもが嫌になって……。

 別に、そのまま放っておいてくれたらよかったのに。口から出そうになった言葉を、どうにか飲み込む。そんなこと言って機嫌を損ねたら、何をされるかわからない。何が目的なのかは知らないけど、どうせまともな人じゃないに決まってる。


「ありがとうございました」

「…………、」

「あの、」

「無理しなくていいよ、急に知らない家に来てたら怖いよね」


 眉をハの字にしたまま、わたしに優しく話しかけてくれるその人。そう思うなら連れてこなきゃよかったのに――なんて言ったら怒られるのかな?

「お腹空いてない? お風呂は、まだ入ってないのかな? 何かあったら言って、なんでもするから」

 どこか困ったような顔で言葉続けるその人を、わたしは真正面から見つめ返す。

「――――どうしたの?」

 少しギョッとした程度でいてほしかった、と思ってしまう。まるでわたしがこれから何か……あっ。


 あることに気付いた。

 もしかしてこの人、わたしの首とか見たの? 気付いてみると洋服も着ていた制服じゃなくてなんかよくわからないデザインのパジャマに着替えさせられている。ていうことは……あざも?


 純粋に、怖かった。

 お父さんから受けていたことを知られないように、詮索されないように、わたしは泊まった先々でいろんな人の“要求”に従っていた。そうすれば、わたしのことなんてどうでもよくなって、すぐに忘れてもらえるから。

 だけど、この人みたいに痣とかを見たくせに何も言ってこない人は、怖い。何を考えてるのか、わかんない。

「あ、あの……、」

「え?」

「あなた……誰なんですか?」

「あぁ、そうだよね、気になるよね。私はね、千種ちぐさ香苗かなえっていうの。近くの高校で先生やってるんだ。あなたは?」

「わたしは……」


 学校の先生と聞いて、ちょっと怖くなった。別になんでもない人たちなら自分のことをわりと素直に言えるけど、もしかしたら交番かどこかに連れていかれるかも……そもそも、先生だからってわかったようなことを言われたり、役にも立たない正論で窘められてもめんどくさかった。


「……わたしは、あ、相澤あいざわひな……です。えっと……」

「別に、先生だからって怖がらなくていいよ。私だって学校の外じゃただの女の人だから」

 どうしてだろう、『学校の外じゃ』と言った香苗さんの言葉と表情に、なんだか影があるように感じた。少しだけ心配になって声をかけようとしたら、急に元気な声になって。


「よし、起きられたみたいだし、ご飯でも食べながらちょっと話そっか! たぶん、私も明日休むし」

「え、そうなんですか?」

 急に体調不良になることもあるでしょ?と彼女は笑う――それって、ずる休みなんじゃ……?


「あの、わたしは、学校行きますよ?」

「え、そうなの?」

「当たり前です、だって……」

 だって、休んだりしたらみんなが怪しむし。先生だって、クラスのみんなだって、何かあったんだってわたしのことを気にする。そんなの……


「そっか……、平気なの、相澤さん?」

「え?」

「学校に行ける状態なの?」

「………………」

 そっか、この人はわたしの痣とかも見てるはずだもんね。それなら、もしかしたら全部言ってもいいのかな……一瞬そう思った。でも、言えるわけがなくて。


「行きます」

 とだけ、答えた。

「そっか」

 香苗さんはそう答えたあと、「私たち、たぶんけっこう似てそうだよね」と言い添えてから、ご飯を持ってくると言って部屋を出た。


 静かになった部屋には、いつのまにか降っていたらしい雨の音がジトジト耳にこびりつく。わたしは、ついさっき見た背中に問いかける言葉を、飲み込んだ。


 なんで、そんなに寂しそうなの?

 自分のことを勝手に話す人とは、たくさん接してきた。けど、何も話そうとせずに、ただ寂しそうな顔だけ見せられるのは、なんだか胸がざわついて。


 彼女がどんな人なのか、知りたくなった。

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消えない痕を、どうか 遊月奈喩多 @vAN1-SHing

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