第2話 香り高く、腐り落ちる
「もう、別れよう」
さんざんキスして、されて、さんざん弄くられて、さんざん舐めて、舐められて、さんざん
彼は、私が音楽の教師として勤めている高校の同僚だった。受け持っている教科は数学で、私自身も高校時代には生徒として彼の授業を受けている。仏頂面だという評判は私の頃から変わらないけど、ふたりでいるときは静かだけど優しい笑顔を見せてくれる、そんな人だ。
けど、そんな笑顔も、今日は見えなかった。
「女房が、たぶん君に気付いてる」
「別れるって言ってましたよね?」
「そう簡単にはいかないんだよ。うちには受験生の子どももいるし、
「そんなの、
「くどいなぁ、君はっ!!」
「――――――――っ、」
明確な拒絶の言葉だった。
それか、たまに聞き分けの悪い生徒に対して叱りつけるときの声。私自身も何度かクラスメイトがこんな感じで怒られているのを見ていたし、教師になってからも、たまに生徒たちから愚痴を聞くことがあった。
まるで、自分に従わないこと自体が気に入らないから怒ってるみたいだ、って。そんなことないはずだよ、なんて返していた自分が恥ずかしくなる。たぶん、彼女たちの直感は当たってたんだと思う。自分の鈍感さを、深く恥じた。
もう、彼に対しての感情はそれだけ。
「……最低ですね」
だから、声が濡れて聞こえたのは、きっと気のせい。彼はそんな私を見て、「すまない」と心にもなさそうな言葉を口にした。それから鞄から財布を取り出して、そのまま私の手に握らせた。
「
「………………、」
先生、と敢えてつけて呼ぶことで、『教師なんだからこんなこと続けちゃいけないのはわかってるよな?』と言われた気になる。
「明日も授業があるんだろう? 千種先生が普段とても熱心に生徒を見ていることは知っている。支障が出てもいけないから、もう帰りなさい」
「………………っ、」
どうして、こんな人のこと好きになったんだろう?
「頼むよ、もう終わりにしてくれ!!」
よくよく見たら還暦まで秒読みくらいの、どこか高圧的な、典型的な生徒に嫌われる先生なのに。別れるからって涙を流す必要なんてないのに。
身勝手な主張を通したい自分のためならいくらでも頭を下げられるような、人なのに……っ。
「……最低です」
シャワーを浴びることすらしなかった。これ以上同じ空間にいることに耐えられなくて、引かれっぱなしの後ろ髪を早く断ち切ってしまいたくて、手早く服を着てからホテルを出た。
いっそのこと貰ったお金全部
雨が降り始めていて、初夏にもなるはずなのに身体が冷えていくような気がした。そういえば仕事が終わってすぐにホテルに来たから、ご飯も食べてない……お腹空いたなぁ。
明日の授業の準備があるだろうなんて、そんなのはわかってる。言われなくてもわかってるし、そんなのを持ち出すくらいなら私と関係なんて持ってほしくなかった。
自分だってクラス別の問題とか出してるくせに、私がシャワー浴びてる間だって、なんか一生懸命プリントの問題作って、朝早く出勤してプリントアウトするだけでいいようにとか、きっちり準備してるくせに。
「…………っ、」
わかってるよ、そういうところも全部知ってたから、私は彼のことが大好きだったんだ。たぶん本気になんてされないこともわかってて、それでもいいって思って、駄目元で当たっていって今の関係になった。
駄目で元々だったんだ――こんなの、想像してた通りの結果になっただけのことなのに。それがわかっているのに、涙が止まらない。こんな人通りの多いところで泣きたくないのに、見世物みたいで惨めな気持ちになるのはわかっているのに。泣いている私に気付いて近付いてくる人影から逃げるようにうろうろして、やっと
いっそのこと、ゴムに穴でもあけておけばよかった――とか、どうしたら彼にもっと傷痕を残せるだろうとか、いろいろなことを考えて。最終的に私が辿り着いた答えは。
『私、千種 香苗は、数学教諭である
別れを切り出したときに彼が言い淀んでいたこと、それは私と彼の関係が生徒たちの間で噂されていたことだ。
学校内の生徒や教師で共有されている掲示板のようなものにも、『千種先生って芳村と付き合ってるんじゃね?』なんて書き込みがたまにある。別に私が今、ここでその噂を肯定したって問題ないんじゃないの?と言いたくなるくらい。
『……そのあと、別れを告げられました。どうやら奥さんが私との関係に気付いたそうなのです。本当のところはわかりませんが、少なくとも彼はそう説明してくれました。
本来、このような形で私たちの関係を公表することは本意ではありませんでしたが、| 』
掲示板に投稿してしまいたい、そう思いながら打ち続けた文章が、不意に止まる。書き終えたらどうするの? 掲示板に投稿して、私はどうするの?
…………遠くから、電車の音が聞こえた。
確かこの近くには線路を見下ろせる橋があったはずだ、とも思い出した。そうしたら、私の足が向かう先はひとつしかなくて。
やっと文を打ち終えて、投稿して全部投げ出してしまおうと前を向いたとき。
「……何してるの?」
つい、声をかけてしまった。
まだ中学生くらいの女の子が、日付もそろそろ変わろうという時間にひとりで橋から線路を見下ろしている――不吉な予感しかしなかった。
「どうかしたの!?」
どうして、呼び止めたんだろう?
私だってこれから……ううん、この子もそうだとは限らないけど、でも、なんだか放っておけなかった。
女の子は無気力そうな声で、私に答える。
「え、あ、すみません、あの……なんですか?」
「なんですかって、君がなんか思い詰めた様子で線路を見てたから気になっただけ。ていうかほんと、服もボロボロだし、なんかフラフラしてるし……わっ!?」
言葉に詰まりながりも事情を説明しようとしている最中に、とうとうその女の子はその場で倒れてしまった。
「…………、」
たぶん、今を逃せば私はここから飛ぶ勇気を持ち直すことなんてできない。見ず知らずの子に構って苦しみ続けるなんて、ありえないとも思ったけど。
「すみません、タクシーお願いできますか?」
どうしても放っておけなかった、年端もいかない女の子。
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