消えない痕を、どうか

遊月奈喩多

第1話 雛は雨夜を見上げる

「うるせぇんだよ、黙って使わせろや、この――――っ!!!」


 お母さんがいなくなってから、何年こんな調子なんだろう? 軋むベッドの上でわたしはただ目を背けて、時間をやり過ごす。だって、勝手に満足したらお父さんは何事もなかったかのように寝てくれるし、わたしの時間はそれからでも十分だ。

 むしろ、変に邪魔されるよりよっぽどいい。だから、お酒臭いキスも平気だし、他の気持ち悪いことだって耐えられる。


 だから、もういいよ。

 さっさと終わらせて、


 ぎゅぅぅぅ、

「――――――――っ!!!?」

 え、なにしてんの、息できなっ、え、えっ!?


「その澄まし顔が気に入らねぇ! なんなんだ、お前ら親子はいつも俺を馬鹿にしたような顔で、くそ、くそっ、くそっ!!

 ひな、雛、雛! お前もいつか俺を捨てるんだろ? だったらその前にここで、……っ!」

「ぁ、――――、ひゅ、――――っ、は、」


 なんで?

 わたし我慢してたよ。

 怖いのも、痛いのも、気持ち悪いのも、ずっと我慢してたのに。お腹が鈍く痛くても怪しまれないように学校には行って、生理が遅れるたびに不安になって、吐き気がしたときなんて涙が出るくらい怖くて、それでも優しかったお父さんを覚えてるから、我慢してたのに……それが、これなの?

 泣きながら首を絞めてくる顔は、まるで熟れて腐ったトマトみたい。わぁ、赤い……赤い、真っ赤だな……、きれい、だね……。


 …………………………

 ………………

 …………げほっ、


 目が覚めると、激しい頭痛と共に喉がひどく痛んだ。だけどまず、生きていることにも驚いた。お父さんはわたしに覆い被さったまま眠っている……そっか、わたしが死ぬ前に、酔い潰れてくれたんだ。

 安心して、それから迷いも消えた。

 だって、ここに残っていたら今度こそ、死んでしまうと思ったから。


 荷物は不思議なくらいにまとまっていた。貯めていたお小遣いも、学校に持っていく物も、1ヶ所にまとめてあった。家事は全部わたしがしているから、きっとやったのもわたしのはずなのに……。

 もしかしたら、今日のことがなくても、遅かれ早かれわたしは家を出ていたのかもしれない――そんなナレーションだけ引き連れて、わたしは生まれてから暮らしてきた家を抜け出した。


 この近所は比較的都会に近い地域のはずだけど、夜を明かせるようなお店はやっていない。ネットカフェは辛うじて営業中だけど、今は夜中の1時前、わたしが入れるような時間じゃない。

 途方に暮れていたときに目に入ったのは、スマホだった。身近には頼れるような人はいないけど、ひょっとしたら……。


家出いえでしました

誰か泊めてくれる人いますか?

優しい人がいいです

#家出少女


 SNSでたまに見かけるこのハッシュタグを、自分が使うことになるとは思わなかった。すぐにいくつか返信が来て、『K県でもよければ』とか『メッセージ送るよ』とか、『女の子?』とか、そういうのでかなり通知が埋まった。

「うわ……、」

 DMを開いたら閲覧注意くらいの画像まで送りつけられている。こんな風になるんだ、これ……。


 だけど、本当に泊まる場所はすぐに見つかりそうな気もした。だって、どこで待ち合わせとか、どこにいるとか行ってその場所の写真を送ってくる人もいるくらいだ。たぶん、本当に泊まる場所を提供してくれるつもりではいるんだと思う。それと引き替えに何を求められるのかは、送られてくるメッセージとかで察せてしまうけど……。

 それでも、迷っている時間もなかった。


  * * * * * * *


 何日か、知らない人たちの家に泊まった。

 それで知ったのは、まともな人はそもそもあんな胡散臭い投稿を毎日している女の子をすぐ家に泊めようとしないってことだった。

 泊めてくれた人はみんな、素性について聞いてくるようなことはなかった。そんな人たちとは違う居心地のよさと引き替えに、要求には従わざるをえなかった。気持ち悪いと思っても、ねちっこくても、我慢しないと追い出されるかもしれない……その恐怖が、わたしを駆り立てた。その人たちの望むような女の子を演じて、演じて、自分を必死に圧し殺して……。


 でも、そんなのにも限界が訪れた。

 眠りたくて泊まるところを探したのに眠る暇もないくらい弄くられて、結局してることは家と変わらなくて、じゃあ逃げた意味って何だったの、ただの延命措置?

 苦しい気持ちが、もうすぐ真後ろまで追い付いてきていた。


 どこにも行きたくない。

 だから今日はSNSに投稿してもないのに『今日は泊まらなくて平気?』なんていうメッセージが届いたりして、逃げ場所なんてないって言われてる気分になって。

 もう、いなくなってしまいたかった。


「ねぇ、何してるの?」

 まだ電車も通っている時間だからと陸橋から線路を見下ろしていたわたしに声をかける人なんて、いないと思っていた。

 だから、最初はその声がわたしへのものだなんて気付かなくて。気付けたのは、さっきより少し強張こわばった声で「どうかしたの?」と声をかけられたときだった。


「え、あ、すみません、あの……なんですか?」

「なんですかって、君がなんか思い詰めた様子で線路を見てたから気になっただけ。ていうかほんと、服もボロボロだし、なんかフラフラしてるし……わっ!?」

 振り返った先にいたのは、美人そうだけど可愛らしさの残る雰囲気の、パリッとしたスーツ姿が綺麗なお姉さんで。

 彼女があげた声で、わたしは自分がその場に倒れたことにも気付いて。慌てて駆け寄ってくるその足音もよく聞こえないくらい。


 それが、香苗かなえさんとの出会いだった。

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