*5片*

 起きてすぐ、美桜さんに連絡した。夜には会いたいとメールをすると、数分と待たないうちに《知ってるよ。一週間会ってくれる約束でしょ?》と、にやりと笑う絵文字とともに、当たり前だと言うような返事がきてひどく安堵した。歳は変わらないはずだが彼女の方がずっと大人で、自分のことが情けないと同時に遣る瀬無い気持ちになる。

 通勤ラッシュの電車に乗り込んで、美桜さんからのメールを思い出しているうちに、あと三日しか会えないのだと改めて実感した。



 昼食の時間、田城といつもの定食屋で決まったメニューを注文する。彼は唐揚げに醤油をダバダバとかけるし、僕もカレイの煮付けの皮や骨を先に取り除いてタレに絡める。僕らにとって、当たり前となった『日常』で、彼とは喧嘩でもしない限りこうして過ごしていくことになることを、確証は無くとも知っている。

 美桜さんとはそうはいかない。残り三日。こうしている時間も別れの時は着々と近づいているのだ。しかし、会える時間も限られている上、昨日は無駄に傷つけてしまった。いっそ、会社なんて休んでしまって彼女に会いに行きたいが、僕らに付き纏う『日常』ってやつは手放すにはあまりにも勇気がいる。

 普段、行くのが嫌で仕方がない会社だが、休もうと思えば不安と憂鬱が押し詰まってくる。

「なんだよ、難しい顔して」

「え、ああ、悪い」

 田城の声で我に返ると、白米を箸で掴んだままぼんやりとしていたらしい。肩の力が抜け、眉間が緩むのを自覚した。

「あれか? 一週間だけ会うことになった女の人」

「違う」

「早すぎる否定は肯定だって、なんかの漫画で読んだぞ」

 米粒がついた口角を持ち上げ、白い歯を見せて笑う彼の目は、好奇心に満ち溢れている。

「一週間じゃ物足りなくなったんだろ」

「そんなんじゃないけど……そうだったとしても期間が延びるわけじゃないし」

 期間が延びるわけじゃないと、必死で自分に言い聞かせているが、その度に嫌気が差す。一週間というどうしようもない期間にも、たった数日で彼女のそばにいたいと思うようになってしまった自分にも、なんの後腐れも残っていないような満足げな表情で、桜のようになりたいと言った美桜さんにも。

「なんだよ、決まり悪そうな顔して。喧嘩でもしたのか」

 田城は言ってから白米と味噌汁を掻き込んだ。

 言われてから心に巣食う黒いもやの正体と、自分がしたことに気づいた。あれは完全なる八つ当たりで、彼女にとっては全く理不尽な僕の言い分だった。

「なぁ、八つ当たりされたらどうする?」

「そりゃ、八つ当たりってことは俺は関係ないんだろ?」

 カレイの煮付けの旨味が口に広がるのを感じながら頷く。

「どうもしないか、怒るか……理由がわかったら宥めたり、共感したりするんじゃね」

 急激に口の中から味が消え、唾液が出なくなる。カレイと米が、ただ舌の上にあるというのが不快で飲み込もうとするが、パサついてうまく喉を通らない。

『優輝さん、ありがとう』

 八つ当たりをした僕に、嬉しそうに微笑んだ彼女の柔らかい声。お礼を言われるようなことなんて言わなかったが、八つ当たりの理由を知っていたとしたらどうだろう。彼女がなぜ嬉しそうだったのか、なぜお礼を言ったのかがわかる。そしてそれは、とても残酷なことだった。

 体から血が抜けていくようなこの感覚は、絶望に近かった。



 夜、いつもの待合室に着くと、美桜さんはおにぎりを頬張りながら手を振った。一瞬、昨日のことを無かったことにしようとしているのかと思った。しかし、「なんだか昨日より泣きそうな顔してるね」と苦笑いを浮かべた彼女は、昨日も含めて今日ここにいるのだと思うと苦しくなる。

「昨日の朝、僕は君に八つ当たりをした」

「知ってるよ」

「理由も?」

 今まで何を訊いても、こちらが不安になるほど躊躇いなくすべてに答えてくれていた。そんな彼女が初めて言葉に詰まる。田城が「早すぎる否定は肯定だ」と言っていたが、その逆があることを知っている。無言は肯定だ。

 なぜ知っているのかを問いただしたい気持ちを抑えて、彼女の隣に座る。

「もしもの話、なんだけど」

「うん」

 思っていたよりも自分の声が掠れ、震えていることが情けなかった。

「桜が散る日を知ってたら、どうする?」

 美桜さんが目を見開き、息を飲む。静まり返った待合室が苦しくてたまらない。いつものように笑って欲しかった。例え話に花を咲かせて、なんてことないように僕の妄想話を笑って欲しかった。そんなことばっかり考えてるから、泣きそうな顔をしてるんだと叱って欲しかった。そしたら、知らないふりをしてあと二日を過ごせたのに、と思うのはあまりにも勝手だろうか。

 二人で、ここから見える桜を眺める。微かに触れた手を、どちらともなく握り締めた。痛いくらいに強く、願うように握り締めた手が、震えているのはどちらのせいなのか。

 やがて、誰もいない待合室には鼻を啜る音が絶え間なく響き始めた。声も上げず、手の温もりを互いに記憶するように繋ぎながら、僕らは鼻を啜る。

 脳にまで水が詰まってしまったような重い頭に、一昨日のお婆さんとマメが笑い合っている姿が浮かんだ。

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