*4片*

 朝、待合室に顔を出すと、彼女はサンドウィッチを頬張っていた。レタスをシャキシャキと咀嚼しながら、ひらりと手を振る彼女の隣に座る。たった数日で『日常』になりつつある行動が、誰に対してでもない羞恥を掻き立てられる反面、心地よさも感じていた。

「朝ごはん、食べ損ねたの?」

「ううん、今日は桜を見ながら食べようと思って」

「好きだな、桜」

 まだ静かな駅で、やわらかな朝日を浴びながら桜を眺めてみる。少しずつ、淡い色の中に鮮やかな緑が混じり始めているのがわかった。

 桜が散っていくのを、いつも何の気なしに眺めているが、なぜだか今年は胸が痛む。

「散らなきゃいいのに」

 無意識に出た言葉が、ゆっくり頭の中に浸透していき、やっと自分の中で納得できた。散らなければ、こんなに桜を見て胸が痛むことなんてないのに。

「違いますよ」

「え?」

「桜は散るから綺麗なんです」

 使い古された言葉だ。限りあるから素晴らしい、潔いから美しい、儚いから愛おしい、それは人も同じなのだと、過去現在そしてきっと未来でもたくさんの人が使い続ける言葉。

 僕も何度かそう思ったし、間違いだとは思わないけれど、美桜さんの口からは聴きたくなかった。

「私の名前ね、美しい桜って書いて『美桜』なの」

 視線を合わせないまま、頷いた。メッセージアプリではなく、メールでやり取りする為に登録したアドレス。数年ぶりに登録されたアドレス帳の一番上に表示されるようになった『青山美桜』。自然に満ち溢れた優しい印象の名前だと、見る度に思っていた。

「秋生まれだから、秋桜コスモスからとった『桜』らしいんだけど、毎年家族で行くお花見が好きで」

 過去のことを思い出しているのか、小さく笑う声が聞こえてくる。

「桜みたいに目一杯咲いて、潔く胸を張って散っていくような人になりたいの」

「やめろよ」

 考えることもせず、言ってしまった。昨日の夜、家に帰ってから自分の様子がおかしいことは、人ごとのように気づいていたし、気持ちがざわついているのがわかっていた。だけど、一週間という期限があり、短い時間しか共に過ごせないということを知っていながら、気持ちだなんだと言って会わないのは躊躇われた。

 それが仇となったと気づいても、せきを切ったように舌が回る。

「桜みたいになんてなれない。散っていく姿が美しいのは、来年もまた咲くことができるからだ。人は散ったら咲かない。二度と咲かない桜が散る姿を見て、綺麗だなんて言える奴がいるわけないだろ」

 怒鳴り声なんて上げていない。カッと熱くなっていく体や頭とは裏腹に、冷ややかで抑揚の無い声が出ていたことに驚いた。

 昨日「終わりを知ることができるなんて幸せだ」と言ったお婆さんが聞いたら、なんて言うだろう。

 すぐそばにいる彼女に目を向けられなくて、逃げるように他のことを考えた。しかし、ひやりと冷たい手が僕の頬に触れ、咄嗟に振り払って立ち上がる。一瞬彼女を見たら、目が反らせなくなった。

 柔らかそうな髪を揺らし、口の端にサンドウィッチのカスが残った状態で、笑顔を浮かべて真っ直ぐ僕を見上げていた。

「優輝さん、ありがとう」

 僕はお礼を言われるようなことなんて言ってないし、寧ろ怒られて当たり前なことを言った。人の価値観や理想を貶す権利なんてありはしないのに、それをした僕を見て、彼女は破顔した。その表情はあまりにも眩しくて見てられなかった。

 あの日見た桜色の何かがまた、色濃く弾けた気がした。



 今日の夜は会いに行けないと、電車に揺られながらメールした。社会人になって早数年、いい歳して何やってんだと我ながらほとほと呆れてしまう。だけど、今夜会って余計なことを言って傷つけてしまうのが怖かった。

 いつもより仕事に身が入らないまま、気づけば定時を迎えていた。そんな僕を気遣ったのか、田城から飲みに誘われたがあまり気乗りせず断った。

 たった数日、仕事終わりに美桜さんに会っていただけなのに、直接家に帰ってしまうと時間がいやに余っている気がして落ち着かない。だからといって、誰かと共に過ごすのは憂鬱で、全身が重く怠かった。

 静まり返った家で、電気をつける気にもならないままベットに身を投げる。このまま、何もかも忘れて眠ってしまいたいのに、瞼を閉じると彼女の顔が鮮明に頭に浮かんでしまうから。

 ここで漫画やアニメなら、眠りについてしまえるのに、感情的なくせに冷静な頭が明日のことを考え始める。風呂に入らなければならないし、このまま寝たらスーツに皺がつく。晩ご飯は食べなくてもいいが、歯は磨かなきゃならないし、朝食の準備をして寝ないと朝は寝ぼけているから、まともに作れた試しがない。

 明日の夜には、彼女に会いに行きたい。どこまでも身勝手な僕に、それでも彼女は笑いかけてくれるのだろう。それを苦しく、悲しく思うが、責める権利がないことくらいわかっていた。

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