*3片*
今朝は、いつもより一時間早い電車に乗り、待合室に顔を出した。一時間も早いと、駅には人も少なく誰もいないかと思ったが、美桜さんはやっぱり桜を眺めていた。僕に気づくと何かが満たされていくような、暖かい笑顔で手を振った。
他愛もない話をした。好きな食べ物のこと、読んだ本のこと、最近あった楽しいこと、朝の電車で考えること……交互に質問を繰り返し、答えては笑った。そうしていくことで、僕らは互いの何かを埋めようとしているのだろうか。朝日に照らされる桜を見て考える。思考の隙間を縫うように、ふと訊きたくなった。
「ここから見える桜が好きって言ってたけど、どうして?」
「なんだろう、私たちの方が桜に見られてる感じ」
「何それ」
笑ってみたけど、僕には彼女が言っていることの意味がなんとなくわかる気がした。待合室という透明なガラスで囲われた僕たちを、太陽に照らされた桜がそよいで、眺めてくる。地に根を張った桜はどこにも行けないのに、僕らよりずっと自由だ。
「じゃあ、木の下で桜を見る気はない?」
「と、いいますと?」
「三日後の土曜、ここから見えるあの桜を見に行かないかな。僕とふたりじゃなくてもいいからさ」
断られる可能性は低いと思っているが、それでも顔の筋肉が引き攣る感覚があった。気楽な笑みを浮かべたつもりだけど、彼女の目にはどう映っているのか気になる。
ほんの少し訪れた沈黙。笑って誤魔化すことを考えたが、美桜さんは悪戯な笑みを浮かべて僕を見上げて言う。
「優輝さんとふたりじゃ、ダメ?」
昨夜はあんなに顔を真っ赤にしていたのに、あざとい表情と台詞に目を丸くする。そして、やっぱり笑ってしまった。
「いいよ、ふたりで行こう」
美桜さんも満足そうに頷いた。
三日目にもなると、田城は彼女について何も訊いてこない。次に彼から問い詰められる頃には美桜さんは新しい場所とやらに行ってしまっているかもしれない。
それでも田城は、彼女との関係を続けさせようと勇み立つのが、容易に想像できた。しかし僕は、たった一週間をともに過ごすからといって、離れていても愛せるほど慈愛に満ちてはいないと思う。それはやはり薄情なのか。昼食としてコンビニで買ったおにぎりを、公園で頬張りながら考えてみるが、自問自答を繰り返してたところで答えなんて出るはずもない。
ため息をつきそうになったが、急に目の前に現れた柴犬を見て目を瞬く。目の前の柴犬は、大きな口の端を綺麗に持ち上げ「ワンッ」と一度吠えた。嬉しそうに笑う顔には、
「こらこら、マメ。ごめんなさいねぇ」
陽の光を吸い込んだ真っ白な髪。柔らかいショートボブがよく似合うお婆さんが、ちょこちょこと小走りで駆け寄ってきて品よく頬を緩めた。
「いえ。お散歩ですか?」
「ええ、ええ。お花見がてら」
尻尾を振り擦り寄ってくるマメと呼ばれた柴犬を、力を込めてワシャワシャと撫でてやる。
「お前は歳なのに元気だなぁ」
「まぁ、わかるのね。お兄さんは犬を飼ってたことがあるの?」
マメのような笑顔を見せてくれるお婆さんに、肩をすくめる。
「残念ながら動物は一度も。なんとなく、わかったんです」
犬仲間ではないことに少し落ち込んでしまったお婆さん。慌てて取り繕おうとするが、それよりも早く彼女は表情を切り替えて話し始めた。
「ここ最近、ずーっと眠ってばかりでね。もうそろそろさよならねぇなんて思ってたのよ。そしたら今日は元気いっぱいで」
まるで、奇跡を見たように話すお婆さんに、なぜか申し訳ない気持ちになってくる。
奇跡なんて、起きないことを知っている。なんて言えばいいか迷い、言葉が口の中まで溢れては消えていく。
そんな僕の様子に気づいたお婆さんは、眉を下げて悲しそうな、だけど何かを悟ったような穏やかな目で微笑んだ。
「ふふふ。老衰の犬がね、急に元気になるのはお別れの合図でもあるのよ」
「え」
「皆が皆、そうじゃないかもしれないけど、可能性としてはね」
シワシワの柔らかそうな手が、マメの頭を撫でる。マメも、目を細めて気持ち良さそうにその手に擦り寄っている。まるで、互いが互いの温もりを忘れぬよう、目一杯脳と体に焼き付けているようだ。
「その……死んでしまうってわかってて、つらくないんですか」
自分でもなんてことを訊いてしまったんだと頭を抱えたくなった。しかし、彼女は気分を害した様子もなく、慰めるような笑みを浮かべて首をゆっくり振る。
「命はいつか終わりがくるもの。こうして、最後に楽しむ力が湧いてきたり、大切な命の死を悟ることができるなんて、幸せなことよ」
会話が通じていたように、マメはお婆さんを見上げ、さっきより軽やかな声で吠えた。歳を重ねた犬とお婆さんは、なんだか今の僕にはあまりにも眩しくて、曖昧な返事しかできなかった。
夜、待合室に行くと、美桜さんはいなかった。
今日は帰ったのかと思ったが、すぐに帰る気にはなれず席に座る。朝はいつも混んでいるのに、夜になると人は疎らで、皆が帰宅を急いでいる。朝見かけた人もたまにいるが、僕らはこれから先、会話をすることもないのだろう。だから、彼らが今日どんな思いで過ごしたかなんて想像もできない。
今日の昼、お婆さんに言われたことを思い出す。必ず訪れる命の終わり。誰かにとって大切な命である彼らが、明日には消えてしまっているとして、僕がそれを嘆くことはできないし、逆に僕が消えたとしても彼らにはなんの問題もない。
もし、その消える命を目の当たりにしたら、命の灯火が見えたなら、どう行動することが正しいのだろう。
「んわっ‼︎」
「っうお」
突然の大きな声と、頬にひんやりとした感触。強制的に意識を戻され、顔を上げると、美桜さんがお茶の缶を片手にケラケラと笑っていた。
目の前で、花開くように笑う彼女を見ていると、さっきまで考えていた答えのない問題が、じわりじわりと迫り来るような気がした。
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