*2片*

 奇妙なお願いをされた昨夜、簡単な自己紹介をし、連絡先を交換した。連絡手段として最も利用されているアプリを、彼女は使っていない。すっかり登録されることがなくなっていたアドレス帳に『青山あおやま美桜みお』の文字が追加されている。美しい桜という名前は、この季節に出会ったことや、彼女そのものに意味を持たせるようで、胸が熱く締め付けられた。

 一週間、僕の時間をくれと言っていたが、丸々要求されているわけではなかった。何時でもいい、時間があればあの待合室に来て欲しいという、唐突な割に謙虚な願い。

 何時でもいいということは、彼女は朝からずっとそこにいるつもりだろうか。朝、歯を磨きながらふと沸き起こった疑問に、背筋がひやりとした。

 いつもより三十分早い電車に乗り、待合室を覗くと彼女はいた。柔らかな茶色の髪は朝日に照らされ、新緑が生い茂る木々の艶やかさを彷彿させる。

「おはよう」

「あ、優輝ゆうきさん」

 声をかけると、花が開いたように笑う。

「朝から来てくれたんですね」

「ちゃんと夜に来るよ。連絡先も交換したし、着く前に連絡するから、それまで暖かいところで過ごしたら?」

 春の暖かい陽気が続いているとはいえ、朝と夜はまだ冷える日も多い。身を案じて出た言葉だったが、彼女は少し目を見張り、眩いものでも見るように微笑み首を振った。

「いいえ、ここで待たせてください。それに私、ここから見える桜が好きなんです」

 彼女の視線に釣られ、待合室から見える桜を見る。開花宣言からあっという間に満開になった花が、風に舞っているのが切なくも美しい。

 それを眺める彼女が今にも消えてしまいそうで、言う気がなかった言葉が口を衝いて出る。

「美桜さん、体弱かったりする?」

「え?」

 彼女の時が止まる感覚。その表情を見て、後悔がせり上がってくるがもう遅い。バツが悪くなり、顔を見れないでいると、鈴を転がすような笑い声が待合室に響く。

「弱そうに見えましたか?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「風邪もひいたことないんですよ」

 細い腕で、ありもしない力こぶを作った彼女は自慢気だった。

「私、このままだったら百二十歳くらいまで生きちゃうかも」

 朝日を浴びて力一杯笑う彼女に、僕はただ「そんな気がする」の一言しか返せなかった。



「で、昨日会ったんだろ? どうだったんだよ」

 出勤してすぐ、隣の席に座り邪推が滲む顔で見てくる田城。お前は女子高生かと言いたいのをグッと堪えて「何もないよ」とだけ返す。

「はぁ? 嘘だろ。加賀屋くんよ、俺に隠し事する気か」

 何を根拠に言っているのかわからないが、彼は何かあったと信じているらしい。信じている、というよりは何かを期待している表情。

「本当に何もないんだって」

「デートの約束もか?」

 一週間毎日会うというのは、彼が言うデートの定義に当てはまるのだろうか。一瞬悩んだのがいけなかった。何かあったと悟られてしまい、仕事中にもかかわらず肩を組まれ頬を突かれる。

「うっざいな、思春期かよ。仕事しろ」

 適当にあしらい、なんとか通常の業務に戻ることができた。しかし、それもその場しのぎにしかならず、昼にはまた質問責めに合う。詳しいことは除き、一週間だけ会うことになったと伝えた時の彼の顔は、独身仲間が減ってしまうと項垂れていた。そんなわけない、と言っても聞いてくれないだろうから、これもまた言わなかった。



 夜、待合室に行くと、彼女が変わらない表情で桜を見ていた。

「お待たせしました」

「優輝さん、お疲れ様です」

 ここに着く前に自販機で買った温かいお茶を差し出すと、まるでプレゼントを貰った子供のような喜色で受け取った。こんなちっぽけな物を受け取るだけで、嬉しいと全面に表現してくれる美桜さんが、可愛らしい。頬が緩むのを感じながら、隣に座ってライトアップされている桜を眺める。

「一週間って、何か意味あるの?」

「んー、特に意味はないんです。一日だと寂しいけど、これからずっとっていうのは、贅沢な気がして」

 お茶を一口飲み、ほっと息をつく。

「じゃあ、僕を選んだ理由は?」

「あ、それ聞いちゃいますか?」

 茶目っ気たっぷりに僕を見上げてくる仕草は、無意識ではできない動きだということくらい、男でもわかる。だけど、そのあざとさを彼女も自覚してやっているのか、憎めない愛嬌があった。

「気持ち悪いって思わないで欲しいんですけど……前から電車で見かけてたんです。先月仕事を辞めて、もうすぐ新しい場所に行くので、その前にどうしても話してみたくて」

 邪推だと思っていた田城の考えは、一部分当たっていたらしい。残念ながら未来ある話ではなさそうだが、アニメやドラマにありがちな展開に、内心驚きでいっぱいだ。その驚きが顔にも出ていたのか、不安に揺れる彼女の瞳。「言うべきじゃなかっただろうか、不気味に思われただろうか」と顔に書いてある。

 わかりやすいその表情が、なんだか無性におかしくなって吹き出してしまう。今度は目を丸くした。こんなに表情で会話ができる人が、大人になってもいるなんて思ってもいなかった。会って間もない女性だというのに、それが心地いい。

「悪い、大丈夫だよ。美桜さんってわかりやすいってよく言われない?」

「あ、い、言われます。うそ、そんなにですか?」

 頬が一気に赤く染まり、耳まで熱が走っている。それがまた僕の笑いのツボを刺激した。あまり笑っていると失礼かと思い、なんとか抑えようとするが、一度ツボに入ってしまったらなかなか抜けない。

 照れ臭そうに俯く彼女に、笑い混じりに謝っていると、むくれた表情から徐々に大人びた笑みに変わる。

「やっぱり、勇気を出してよかった」

 達観したような笑みが、急に僕の笑いのツボに蓋をする。

「優輝さんの、こんな素敵な笑顔が見られたんだもの」

 言葉にされなくても、幸せだと伝わってくる。僕は、彼女との永遠なんてないと知っているのに、それでも彼女の『幸せ』が、永遠に続けばいいと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る