零れ桜

石蕗 景

*1片*

 午前七時四十分のプラットフォームは、通勤通学を目的とした人で溢れかえっている。ブレザーのポケットに手を突っ込み、片手でスマートフォンを弄る女子高生。踵が磨り減った革靴を履き、線路をぼんやり眺め続けるサラリーマン。色とりどりの付箋が貼ってある分厚い参考書を開き、目を皿のようにして、そこに書かれている文字を追い続ける女子大生。今日発売されたばかりの週刊誌を、嬉々として読んでいる男子高生。戦場に赴くような表情を浮かべる者も何人かいる。誰も、この場所から見える満開の桜になんか目もくれない。

 この中で一体どれくらいの人が、昨夜、涙を流していたんだろう。何かを失ってしまった人は何人いて、何かを得た人は何人いるのかを、無目的に考える。

 軽快な音楽が響いた後、電車が近づいてくるアナウンスが流れた。到着した電車から、おもちゃ箱をひっくり返したように人が溢れ出てくる。そして今度は、蟻地獄に吸い込まれるような勢いで人が電車の中へ消えていく。列の後方に並んでいた僕も、誰に言われるでもなく足を一歩踏み出した。しかし、勢いよく胸に飛び込んできた何かのせいで二歩目を踏み出すことは出来なかった。

「あっ、ご、ごめんなさい」

 飛び込んできたのは女性だった。か細い声でぎこちなく謝罪の言葉を口にする。煩わしそうに僕らを追い越して、電車へ乗り込んでいく人の気配を感じながら、両手を顔の横に持ち上げた。下手に触れて、何か問題になるのはごめんだ。女性は、咄嗟に掴んでしまったであろう僕のスーツから手を離し、こちらを見上げてもう一度言う。

「あの、本当にごめんなさい」

 色素が薄い明るい茶色の瞳と、同じ色の髪がふわりと揺れた。綺麗な瞳の上で申し訳なさそうに垂れ下がった眉が、月並みな表現だが仔犬を思わせる。

 彼女の周りに桜色の何かが弾けたように舞うのが見えた。



 電車に一本乗り遅れてしまった僕は、会社に着いてすぐ、胸元の汚れを見た同期にあらぬ誤解を受けて笑われた。

 担当顧客への新商品案内が一週間後に控えているため、それをあしらいながら案内書の最終確認作業に取り組む。そうして彼の詮索を免れていたが、昼のチャイムが鳴るとその手は使えなかった。

「加賀屋くん」

 女性にも負けない甘ったるい猫なで声が、顔のすぐ横から聞こえてくる。横目で彼を見ると、隠す気もないいやらしい笑みを浮かべ、僕の顔と胸元に視線を往復させた。

「うし、昼飯行くぞ」

「いいけど、別に田城が想像しているようなことはないからな」

 パソコンのモニター画面を消して、財布を片手に立ち上がった。彼が好奇心を隠さないように、僕も面倒臭いという気持ちを隠すことなく、後頭部を掻く。これから彼に根掘り葉掘り訊かれるのかと思うと憂鬱にもなったが、誰かに話してしまいたいという欲求があったのも事実。矛盾した思考の自分に呆れ、ついこぼしたため息を聞いた田城は、にやついた笑みを抑え「ほどほどにしてやるよ」と、軽快な笑い声を上げた。

 会社から少し離れた定食屋で、それぞれ注文した料理に箸を入れながら今朝のことを話す。

 いつも同じ電車の同じ車両に乗っていた女性が、今日はなぜか正面からぶつかってきた。その時、口紅が僕のワイシャツに付いてしまい、弁償させて欲しいと彼女から申し出があった。洗えば落ちるだろうし、今日は取引先に会う用事も重要な会議もない。普段なら丁重にお断りしたところだが、彼女が纏う桜色のせいで遠慮することなく頷いてしまった。

 彼女は今日の夜、同じ駅の待合室で待っていると言い、返事を待つことなく去って行った。時間の指定もなく、連絡先どころか名前もわからない以上、今日は早めに仕事を切り上げてあの駅へと行かなければならない。

「へぇ。じゃあ俺の邪推も強ち間違いじゃねーわけだ」

「邪推ってわかってるならやめろよな。そんな邪な考えはない」

「でも会いに行くんだろ、今夜。ワンチャンあるってそれ」

 カレイの煮付けの皮を剥がし、太い骨を取り除いて白身をタレに絡めて食べる。タレの味と白身の旨味を感じながら白米を押し込み、目の前で唐揚げに醤油をかける田城を睨む。「お前は真昼間から、何を学生みたいなことを言っているんだ」という念を込めてみたが、彼には届かなかったらしい。唐揚げと白飯を口いっぱいに詰め込む姿は、まるで子供だ。

「いや、本当にそんなつもりはないんだって」

「でもいつも電車で会う人なんだろ? 向こうも案外その気だったりして」

「アニメやドラマの見過ぎだろ、それ」

 同じ時間の同じ車両で毎朝見かける、ただそれだけの人と、通勤ラッシュの満員電車でフィクションのような展開が待っているわけがない。それに、彼女とは男女の関係になることはない。言い切ってしまえば、田城は「わかんないだろ」と言い返してくることがわかっているので、敢えて口にはしない。だけど、僕は言い切ることができる。彼女と今夜会ったとして、一夜限りの何かに身を寄せることもなければ、これからという未来が待っているわけでもない。

 心の中で思いながら、ほんの少し感じた切なさを誤魔化すように、濃い味の味噌汁を飲み込んだ。



 早めに切り上げる予定だった仕事が、思っていたより長引いてしまった。十九時には駅に着くつもりが、もう二十一時になろうとしている。朝会っただけの男を、こんなに遅くまで待っているはずもない。しかし、もし待っていたとしたら、見ず知らずの女性を裏切ることになる。寝覚めの悪そうなことを回避すべく、待合室を覗きに行って驚いた。彼女は、待合室から見える桜をぼんやりと見つめてそこにいた。

「すみません、遅くなりました」

 慌てて待合室の自動ドアを潜り、声をかけた。彼女は桜から視線を移し、表情を取り戻す。今朝は仔犬のようだと思ったが、その印象が変わることはなさそうだ。飼い主が帰って来たことを、手放しで喜ぶ仔犬に見える。初対面の女性に対して失礼な表現だろうか。

「わぁ、よかった。名前も連絡先もわからなかったから……来てくれて嬉しいです」

 爛々らんらんとした声音は、媚びるように作り上げられたものではないことがわかるほど、透明感があった。

 彼女は、脇に置いていた紙袋を胸元に持ち上げると困り顔で言った。

「本当にすみませんでした。あの、そのまま帰って彼女さんに疑われたりしないですか?」

「あー、大丈夫です。残念ながら、そういった関係には縁がないんで」

 手渡された紙袋を受け取り、反対の手で後頭部を掻く。初対面の女性に、自分の色恋話はしたくないが、適当に流してしまうのも躊躇ためらわれた。

 彼女は「本当ですか!」と、声を上げた。驚いたというよりは、何かを期待するような表情。いつもなら、女性の表情や言葉に心が揺さぶられることなんてない。縁がないとは言ったが、正直、愛や恋というものに必要性を感じなかった。一生独り身というのは『孤独死』という面では恐ろしいが、それ以外はなんとかなると思っている。

 そんな僕の心なんて知る由もなく、彼女は期待に満ちた瞳で話し始めた。

「あの、変なやつだと思われるかもしれませんが、あなたの時間を一週間、私にくれませんか?」

「え?」

 彼女の表情は揺るがない。何度も言うが、いつもならこんなの相手にしないし、迷うことなく「は?」と口にしていた。眉間に皺を寄せ、紙袋も突き返して足早に帰っていたことだろう。それができないのは、やはり彼女が纏う桜色のせい。言葉もなく頷いた僕を見て、幸せそうに微笑んだ彼女の纏うそれが、待合室の向こうで舞った桜の色と同化した。

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