レザー・エプロン




 ……火照った肌を冷やす夜風が心地良い。



 ……木々の隙間から覗く木漏れ月が心地良い。



 ……肺を満たす甘美な香りが心地良い。



 ……脳を舐める絶叫が心地良い。



「ッやめ、やめでプギッ⁉︎」



 命乞いをする人間の首を踏み潰したジャックは、足を包む生ぬるい感触に甘い溜息を吐いた。


 蕩ける思考の中、彼は今までの思い出を尊ぶように咀嚼する。

 ……誰にでも優しく、争いを好まず、仲間を大切にする僕。

 それもまた、本当の僕なのかもしれない。

 でも、僕は知っている。


 本当の僕を理解できるのは、僕だけだ。


「〜♪」


 ジャックは今殺した人間の頭部を大事そうに持ち上げ、大きな木の枝にソッと置く。


「よしっ」


 太い枝の一本一本にズラリと並べた人間の生首を見て、ジャックは満足げに額の汗を拭いた。


 遠くから響く戦闘の音。空気を染める血の香り。


「……ふふっ」


 人の成る木を眺めながら、ジャックは心の底から思う。


 やっぱり僕は、人間を愛している。


 兄弟達は皆この感情を憎悪と呼ぶけれど、僕はそうは思わない。

 生まれた瞬間から想いを馳せ、乞い願い、心を占有する感情など、愛以外の何物でもないだろう?


 けれども、僕の学べる範囲だけでは不十分。人間を愛すには、人間の解像度をもっと上げなければならない。そうでなければ無礼というものだ。


 だから僕は、先生に人間のことを沢山教えてもらった。


 日が上り、布団から出ない子を起こしに行く親のことを。

 慌ただしい食卓に並ぶ、味噌汁と白米と焼き魚のことを。

 共に学び共に遊ぶ、学校と呼ばれる場所のことを。

 授業中に先生の目を盗んで消しカスを投げ合うことを。

 水泳の授業終わりの、仄かな塩素の香りにまどろむ時間が好きだったことを。

 道路に引かれた白線から落ちないように帰ったことを。

 異性に恋をし、フラれた悲しみを、成就した喜びを、初めて恋人と手を繋いだ時の躊躇いを、好きという感情の甘酸っぱさを。

 長い間同じ様な時間を繰り返し、でもそれが幸せなのだということを。

 何の理由もなく、親に反抗してしまう時期が来ることを。

 一人で生活するようになり、ようやく親の有り難みが分かることを。

 大人になり、社会を構成する一部となることを。

 厳しい毎日の中、小さな幸せを一つ一つ噛み締めるようになることを。

 結婚し、家庭を持ち、子を持ち、親として苦悩することを。

 歳をとり、動けなくなり、人生を振り返りながら眠りにつくことを。


 普通という幸せとは逆に、遍在する醜さも教えてもらった。


 どれだけ成長しようが、あぶれた人間を排斥しようとイジメが起きることを。

 互いが互いを見下し合い、蹴落とそうと必死になることを。

 普通とは幸せと同義であり、その裏では数えきれない程の人間が苦痛に耐えていることを。

 望まれずに生まれてきた子がいることを。

 親から虐待される子がいることを。

 社会の歯車にすらなれない人間がいることを。

 存在意義を失い、自死を選ぶ者が後を絶たないことを。

 機能しない法律を。

 欲望のままに動く人間がいることを。

 他人から搾取して悦に浸る者がいることを。

 常に殺し合いが絶えない国があることを。


 ……この星に生まれた人間一人一人に、かけがえのない人生が流れていることを。


 先生が教えてくれた。

 どれだけ人間が愛おしい存在なのかを、どれだけ人間が美しい存在なのかを。

 それから、そんな人間の愛し方も。


「っいたぞ‼︎ 総員戦――」


 一陣の疾風が木の葉を揺らし、一〇の首から噴き上がる血飛沫が月光に舞う。


 キラキラと赤く彩られる世界の中、ジャックは腕から生やした血濡れの鎌をしまった。


「すぅぅ、はぁあ〜。……ん?」


 その時、深呼吸をするジャックの前に現れる、光の門。


 周囲を飛び回る妖精達が、祝福する様にジャックの手を引く。


「妖精さん達、……僕を招待してくれるのかい?」


 クスクスと笑う妖精に手を引かれるまま、ジャックは一歩を踏み出す。


 妖精は自分達の気に入った存在を、自分達のお気に入りの場所に招待する。

 そこには善も悪も介在せず、ただ彼らの遊び心のままに扉は開かれる。



 ……目を開けたジャックの視界を、人工的な星々が埋め尽くしていた。


「……」


 ジャックの頬を、一筋の涙が伝う。

 眼前に広がる人間の営みは、彼が今までに見たどんな景色よりも、美しいものであった。


「っ、どうしたの君⁉ 大丈夫⁉︎」


 全身血塗れで涙を流す子供に、道行く婦人の一人が声をかける。


 ジャックは慌てふためく彼女を見上げ、その愛らしさに頬を染めた。


「だ、大丈夫ですっ。実はトマト缶を浴びてしまって」


「あら、そうなの? でもトマトにしては、」


「あのっ、少し待っていてもらえないでしょうか!」


「え、別にいいけど」


 パタパタと近くの服飾店に走っていく彼を目に、婦人は「忙しないわねぇ」と苦笑する。自分にもあんな時期があった、彼女がそんな風に過去を懐かしんでいると、


「え?」


 服飾店の窓にビシャッ、と赤い液体が飛び散り、絶叫が響く。


 ドアが開きコロコロと転がってくる生首を見て、婦人は腰を抜かしてしまった。


「お待たせしました。どうでしょう?」


 スーツに着替え微笑むジャックが、頬に飛んだ血をハンカチで拭い婦人に歩み寄る。


 騒然となる場に似合わぬ落ち着き具合と、無邪気な子供らしい笑み。その場に居合わせた全員が、目の前の子供の狂気を悟った。


 クルリと回って服をお披露目するジャックに、婦人は必死に後ずさる。


「ヒィッ⁉︎ 来ないでっ、来るな化物⁉︎」


「酷いですよ。でも、それは事実です。私は人間にはなれない」


「……へ?」


「だから私は、人間を愛すのですよ」


 ジャックは手の平の上に乗せた婦人の首に、ロンドンの街明かりを見せてあげた。

 彼は切に思う。どうか誇ってほしいと、人間であることを尊び、慈しんでほしいと。あなたはこんなにも美しい存在なのだと、そう教えてあげたかった。


 ……腕に垂れる血液が、ぬるく、冷たくなっていく。


 ……彼の腕を、一つの人生が流れていく。


 ……その重みが、儚さが、ジャックの頬を恍惚に歪めた。





 ジャック Cell:物体創造系【Jack the Ripper】


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