理性など捨て去って
静寂に満ちていた森林地帯が、一気に金具の音で騒がしくなる。
見回り中だった者、訓練中だった者、寝ていた者、休憩していた者、家族と食事中だった物、風呂に入っていた者。当人の事情を一切考慮されずに行われたにも関わらず、手元に鎧がある者達は急いで武装し隊列に加わる。
ブリテン軍に入った者に最初に下される命令は、『もし瞬きの後に見知らぬ場所に立っていたら、魔女の指揮の元作戦を遂行せよ』である。
裸だろうが寝起きだろうが、彼らの中にこの状況を理解していない者は一人もいなかった。
「……これは。……はぁ」
腰にタオルを巻いた裸の老爺が、愉快愉快と笑っているスカアハの右隣で溜息を吐く。
「主力部隊を軒並み……スカアハ様、御上に怒られますぞ?」
「知ったこっちゃないよ。それよりお前は、この光景にテンションが上がらないのかい?」
「……愚問ですなぁ」
そこへ歩いてきた可愛らしい寝巻きを着た妙齢の女性が、頭のボンボンを揺らしスカアハの左隣に並ぶ。
「スカアハ様、ここはダンジョンの最新部で間違いないか?」
「ええっプフ⁉︎ お前、普段はあんなにツンケンしているのにっ、随分とまぁっ、プフフっ」
「……」
「可哀想に。貴方様がこんな時間に呼び出すからでしょう?」
真っ赤に頬を染めプルプルと震える女性に、老爺が憐憫の目を向けた。
――直後老爺が指を振り、女性が後ろの騎士の剣を抜き跳躍。
スカアハに向かって突っ込んだ龍の内一匹が重力に押し潰され、一匹が空中で真っ二つになり湖に落下した。
着地した女性は付着した血を払い、剣を元の持ち主に返す。
「スカアハ様、私を含め武装できていない騎士が多数います。呼び出した以上、責任はとってください」
「ウフフっ、そう怒らないでちょうだい。わざとじゃないのよ」
「儂ら魔術師の分も頼みますぞ」
「分かったわよ」とスカアハが夜の闇を掴み、全軍に覆い被せる。瞬間彼らを包んだ影が鎧の、ローブの、剣の、杖の形を成した。
「っ……」
「おお、これはまさか」
「私は今機嫌がいいの、サービスよ。お前達がそれぞれ騎士隊と魔術師隊の指揮をとりなさい」
「了解」「承知しました」
陣形を展開し龍の迎撃に入る軍から目を逸らし、スカアハは「さてと、」とエキドナに歩み寄る。
「随分とおとなしかったわね? ほら、もう邪魔は入らないから、思う存分語り合いましょう?」
「……ッ」
目を見開き俯いていたエキドナの顔がバッ、と上がり、その目が徐々に恐怖に染まっていく。
しかしスカアハは、そんな彼女にどこか違和感を感じた。
……その目が向いているのは、自分ではない。今この女は、私を見ていない。
エキドナの唇が震える。
「ッ……だめ、だめよっ、出てきちゃダメ‼︎」
その時だった。
陣形の両脇から悲鳴が上がり、隊列が崩れる。
暗い森の中、素早く飛び回り走り回る何かが、その凶爪と凶牙を振るい人を狩っている。
一人、また一人と森の中に引きずり込まれ死体になって帰ってくる中、一人の精鋭騎士が飛び回る何かを捉え斬り裂いた。
トドメを刺そうと振り上げた剣が、しかし躊躇に固まる。
「っ……何だ、これは」
絶叫を上げ血を吐くそれは、人の子供の形をしていた。
しかし割れた瞳が、生えた牙が、肌を覆う鱗が、決定的に人ではないと訴えてくる。
彼は優しかった、優しかったから躊躇ってしまった。
――瞬間、剣を振り上げていた騎士の首が血を吹いた。
……倒れ死ぬまでの遅々とした感覚の中、騎士は今の光景をフラッシュバックしていた。
狩られる直前で合った目。
瞳孔が開き、赤く光るあの目は、子供が、ましてや人間がしていい目ではなかった。
あの目は、……理性などない獣の目だ。
地面に倒れた騎士は最後の力を振り絞り、緊急事態を知らせる救援弾を空に向けて放った。
「ハァっ、ハァっ、ハァっ」
空に向けられた騎士の手を引きちぎり、脳天に爪を突き立てたミェルは、荒い息を吐きながら頭上で光る信号弾を見上げる。
……初めて見て、初めて殺した人間という種族。
その嫌悪感は、物言わぬ死体となっても消えはしなかった。
東条と仲良くなり、ノエルと友達になった心優しきミェルは、心の底から理解する。
……こんな気持ち悪い生命体と仲良くするなんて、絶対に無理だ。
「お前ら! 強ぇのが何匹かいやがる! 俺らはそっちに行く‼︎」
「っうん!」
全身を返り血で染めたオルグとリンが、枝の上から信号弾に舌打ちする。
「ミェルっ、ジャックはどうした⁉︎ いつもお前とセットだろ⁉︎」
「分かんないっ、どっかいっちゃった!」
「チッ、んの野郎ッ」
「オルグ、ウジャウジャ集まってきてる」
牙を剥くリンの尻尾がユラユラと揺れる。
「分ぁってるッ、お前らガキどもはしっかり固まって動け‼︎ いいな⁉︎ 雑魚の駆除は任せたぞ‼︎」
「うん! 分かった!」「はい!」「分かった!」「はーい!」「気をつけてね!」
「おう‼︎ 行くぞリン‼︎」
「指図するな」
包囲網を一瞬で血飛沫に変えた二人に続き、ミェル達も走り出す。
本能に従った、純粋な殺戮。
ヒトは、人には成り得ない。
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