4章〜孕んで、孕んで、孕んで、孕んで〜

第5話 



 ――世界が変わる少しだけ前。

 モンスターが現れる少し前。

 東条はアニメイトから出て、紗命はショッピングを楽しみ、灰音は両親と引越しの準備を進めている、そんな頃。


 まだ誰も、これから起こることなど予期していなかった、そんな頃。





 ――中国・北京――



傻子バカが!っ俺に指図すんじゃねぇクソ女‼︎」


「キャァっ⁉︎」


 寂れた路地裏に建つとあるアパートの一室から、男の怒声が響く。


「テメェみてぇな売れねぇ娼婦にっ、俺の他に誰が付き合ってくれる⁉︎身の程弁えろよメス豚が‼︎」


「ごめんなさいっごめんなさいっ」


 男はうずくまる女性をひとしきり蹴り付け、ボサボサになってしまった髪を掴み無理矢理立たせる。


 生気の抜けた朧げな瞳。

 ひび割れてしまっている唇。

 目の下を覆う濃いクマ。

 決して醜くはない彼女の素顔は、過度なストレスのせいで凡そ売り物に出来る物ではなくなっていた。


「お前は俺のために稼いでくればいい。他に何も考えなくていい。そうだろ?」


「はいっ、はいっ、っ」


 何度も頬を叩かれ、涙を流しながら彼女は頷く。


 薄暗い部屋の中、そんな彼女の身体をよく見れば、今日1日でついたとは思えない程に大量の痣や傷が肌を汚していた。

 この光景が日常であることが、その傷痕からありありと想像出来てしまう。


 素直に頷く彼女に、男は優しく微笑む。


「そっか、分かってくれてありがとう。……ごめんね、ついカッとなっちゃって」


「……ぅ、はい、」


「俺だってこんなことしたくなかったんだよ」


「っ……」


「愛してる」


「……私も、」


 抱きしめられる腕の中で、彼女は身体を強ばらせる。



 ……自分はこの人を愛している。愛しているから、助けなくちゃいけない。言うことを聞かなくちゃいけない。愛しているから。愛しているから。


 そう自分に言い聞かせ、笑顔を作る。


 この人は私を愛していると言ってくれる。

 だからきっと、私もこの人を愛している。愛しているなら、この人のために生きるのは普通のこと。少しばかりの苦痛だって、私が我慢すればいいこと。


 だって私は、この人を愛しているから。



 彼女は男にされるがまま、ベッドの上に押し倒され、服を剥がれる。


「……」


 ……いつからだろう。この人との行為に快感を感じなくなったのは。


 彼女がいつもの様に諦め、男がズボンを下ろそうとした、


 その時、


 何やら騒がしい空気が家の窓を打った。


「あ?何だ、祭りか?」


「……?」


 加速度的に大きくなってゆく喧騒。獣のような声もチラホラ聞こえる。


 窓を開けた男の目に映ったのは、


「……は?」


 街中を逃げまわり、モンスターに食い殺される人間達の姿であった。


「何だよ、これ、」

「ひっ」


 横から覗いた彼女も、その凄惨な光景に悲鳴を漏らす。


 そしてそんなことをしている間に、自分達の住んでいるアパート内にも絶叫や悲鳴、唸り声が響き始める。


 男が焦り台所の包丁を持った、


 直後、


「ギェアアアッ‼︎」

「「――ッ⁉︎」」


 大型のハイエナの様なモンスターが扉をぶち破り、住民の頭にかぶりついたまま家の中に転がり込んできた。

 家の中を滅茶苦茶にしながら振り回される住民の身体は、その顎と遠心力に耐え切れず頭を残したまま窓を割りすっ飛んでゆく。


「……グルルルル」

「「……」」


 口の中の頭部を咀嚼するハイエナが瞳に映すのは、当然、同じ部屋の中で震える人間2人。


 絶体絶命、その緊張の中、男は隣にいた彼女を自分の前へと押し飛ばした。


「っお前どうにかしろッ!」

「っえ、ッ、あ……」


 投げ出される身体。

 膝をつき、顔を上げるそこにあるのは、

 ……ズラリと並んだ牙と、濃厚な血の匂いを漂わせる獣臭。


 ……死んだ。


 彼女は瞬時に悟った。

 この状況から生き残る術などない。

 ……それに、いっそここで終わってしまった方が良いのかもしれない。

 生きていても死んでいても、自分に価値なんてないのだから。


「……」


 目を伏せる彼女は、自分の死を受け入れ、…………数秒、


「……?」


 訪れない痛みに疑問を持ち、恐る恐る顔を上げる。


「グルル、ルルゥ」


 ジッと彼女を見つめたまま、止まっているハイエナ。

 ……彼女の頭の中に更なる?が浮かぶ。


「……噛まないの?」


「……グルルゥ、」


「……は?どういうことだ?っ(今のうちに)」


 目の前の獣から、なぜか殺意が感じられない。

 まるで近所の犬と触れ合うように、彼女がゆっくりと手を伸ばし、そっとハイエナの頬に触れようとした。


 ――瞬間、


「ァギャ⁉︎――」「……ふぇ⁉︎」「ッ⁉︎」


 目の前の景色が根こそぎ吹き飛び、遅れて爆音と砂埃が宙に舞った。


 何が起きたかも分からない、一瞬の出来事。周りを見れば、数歩先から床がなくなっている。というか外になっている。


 今の一瞬で、手を伸ばす彼女を境に、アパートの半分が削れ飛んでいた。


「ぇ?え?」


 ハイエナの僅かな肉片がこびり付いた壁を見ながら、彼女は腰を抜かす。もう何が何だか分からない。


「は、ハハハッ!よ、よくやったぞ!」


 ……私がやった?そんなわけないだろう。

 笑みを浮かべ肩を揺する男を他所に、彼女はふ、と土煙の中を見つめる。


 ……何か、いる。感じる。



 ……誰かが、私を見ている。



 濛々と揺れる土煙が、燻んだ月明かりに照らされ徐々に晴れてゆく。



「…………ロコココココココココ」



 黒い模様の入った滑らかな純白の外骨格。

 昆虫染みた2本の脚と、4本の腕。

 歪ながらもどこか神秘的で、荘厳な造形美。



 月光を反射し、瓦礫の上に立つその白き威容に、彼女は一瞬見惚れてしまった。


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