第6巻 一章 たこ焼きは口の中を火傷して食べる物

嘗ての日々

 




 小学3年生の時。


 それは、吐き出す吐息に色がつき、チラチラと雪が降り出す頃やった。


 朝のホームルームが終わると、先生が転校生を紹介すると言った。


 周りは楽しそうに騒いでいたが、正直どうでも良かった。

 どうせなら、自分よりも根暗そうで、標的になりそうな奴が来ればいい。


 うちは机に突っ伏し、ボサボサに伸びた髪を投げ出し、そんな事を考えていた。


 ……だけど、ドアを開けて入って来たそいつは、サラサラの髪を靡かせ、万人に受ける笑顔を貼り付け、一瞬で皆の心を奪う様な、うちが一番嫌いなタイプの人間やった。


 そいつはチョークを持ち、綺麗な文字で黒板を鳴らす。


「おはようございます。黄戸菊 紗命申します。これから宜しくお願いします」



 それがうち、十五夜 紫苑が、初めて彼女を知った日だ。




 ――黄戸菊は凄かった。


 頭も良く、人当たりも良く、誰とも分け隔てなく会話を楽しんでいた。


 その日の昼頃には、黄戸菊は既にクラスの人気者になっていた。


 手作りのお弁当を持ったクラスメイト達が、彼女を中心に集まって行く。


「……」


 うちはその光景を見ながら、ビニール袋からコンビニのパンを取り出す。


 皆が席をくっつけ、グループで楽しく昼食をとる中、うちは端っこで味のしないパンを齧る。


 別にどうって事ない。いつもの事だ。


 静かに、誰の目にもつかないように、黙々と口を動かしていた。


 その時、


「ぁっ……」


 伸びてきた手が、ヒュっ、とパンを掴んだ。


 見上げるとそこには、複数の女子が嗜虐的な笑みを浮かべ立っていた。


「紫苑、あんた今日もコンビニのパン食べてるん?」


「か、返して」


「おかんに頼んでみなよ。お弁当作ってーって」


「う、うるさいっ」


「え、何?聞こえへーん」


 取り返そうとするうちを、リーダー格の女子は面白そうにからかう。


「うぇっ、食べかけのとこ触ってもうた!きったなっ」


「ぅっ」


 うちの制服に、ベチャ、とパンが投げつけられ、床に落ちる。


「うわー菌がうつる!」


「ちょっ、こっち来いひんでや!」


「「「「アハハハハハ」」」」


 走り回るいじめっ子、それを笑うクラスメイト。


「……」


 別にどうって事ない。いつもの事だ。


 うちは歯を食いしばりながら、落ちたパンを拾った。




「……くそっ」


 トイレで制服を濡らすうちは、なかなか落ちない汚れにイラついていた。


 教室に帰ったら、全員死んでいればいいのに。


 ボサボサの髪の間から汚れを睨みつけ、ゴシゴシと擦っていると、


「あの、」

「っ」


 突然横から声をかけられ、肩が跳ねた。


「これ、使います?」


 そこにいたのは、心配そうな顔をする黄戸菊やった。


「……」


 可愛い女が、うちに可愛いハンカチを差し出している。


 ……そんなにうちを憐れみたいか、そんなに皆のご機嫌を取りたいか、そんなに自分をよく見せたいか。


「いらないっ」


 うちはハンカチを無視し、彼女の横を通り抜ける。


 コイツに関われば、今以上に酷い嫌がらせをされるのは目に見えている。


 恐怖、怒り、嫉妬、胸に渦巻く負の感情。


 背中に感じる視線に、うちは顔を歪めた。




 ――「……ただいま」


 帰宅したうちは、寂れたアパートの扉を開く。


 最初に目に入るのは、廊下に並んだゴミ袋の山。

 勿論おかえりの言葉などない。


「……」


 シンクには洗われるのを待つ食器が山積みになり、床にはゴミや服が散乱し足の踏み場もない。


 うちは椅子に座り、テーブルの上のゴミを退け、宿題を始めた。


 少し経つと、隣の部屋からゴソゴソと音がし、扉を開け下着姿の女性が気怠そうに出てくる。


「あぁ、あんた帰ってたの」


「た、ただいま、お母さん」


「はぁ、ねむ」


 母はうちには目もくれず、棚を漁りカップメンを取り出す。


 うちはその背中を見ながら、意を決して口を開いた。


「あ、あの、お母さん」


「んー」


「うちも、お弁当欲しい」


「弁当?お金渡してるんだから買えばいいじゃない」


 手を握りしめ、母を見る。


「違う、お母さんに作ってほしいっ」


「……あ?」


 瞬間、しまった、と思った。


 気付いた時には、投げられたカップ麺がうちの頭にぶつかっていた。


「っ」


「ふっざけんな!学校まで行かせてやってんのに、弁当まで作れって⁉︎」


「ごめんさいっ」


「アンタの為に、夜遅くまで働いてる私に早く起きろってのかッ?ああ⁉︎」


「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」


「クソっ、気分悪い」


「……ごめんなさい」


 うちは蹲ったまま、母の怒りが収まるのを待つ。


 そうや、本当は無理な事だって分かっていた。

 何やってんろううち、馬鹿みたいだ。


「……はぁ、アンタなんて産まなきゃよかったよ」


「……」


 別にどうって事ない。いつもの事だ。いつもの事。


 うちは必死に頭を黒く塗り潰し、自分に言い聞かせた。




 ――次の日も、その次の日も、変わらない毎日が続いた。


 蔑まれ、虐められ、虐げられ、からかわれ、笑われ、嗤われる。


 クラスメイトは自分に矛先が向かないよう空気を合わせ、先生は見て見ぬふりをする。


 だけどその中で、唯一うちに話しかける奴がいた。


「おはよう、十五夜さん」


「……」


 黄戸菊。こいつだ。


 人気者のこいつがうちに構う所為で、最近嫌がらせの度合いが苛烈になってきている。


 うちは静かにしているのに、何も迷惑かけていないのに、こいつの所為で。こいつの所為でっ。



「今日一緒に昼食「――っもう話しかけるなよ!」……」



 私の声に、騒がしかった教室が静まり返る。


 これはマズい。やってしまった。そう思いながらも、私の口は止まらなかった。


「何でうちに構うんだよ!お前が話しかける所為で、こっちは迷惑してるんだよ!どうせお前も、うちが虐められてるとこ見て笑ってんだろ⁉︎お前もコイツらと一緒だ‼︎

 はぁ、はぁ、はぁ」


 驚いたような顔の黄戸菊。痛い程の静けさに包まれた教室。


「――っ」


 うちはそこで怖くなり、教室から飛び出した。


 その日は学校に戻れるはずもなく、家へと帰った。




 ――「……」


 翌日、うちは憂鬱になりながらも登校した。


 校門を潜り、玄関を通り、下駄箱を開ける。


「……」


 その中には、泥を詰め込まれた上靴と、『死ね』と書かれた紙が無造作に入っていた。


 別に、予想通りではある。人気者にあんな事を言ったのだ。ただで済むはずがない。


 うちは上靴を洗い、ビチャビチャのまま教室に入る。


 すると案の定、


「えー?アンタよく登校出来たわね」


 リーダー格が突っ掛かってくる。

 それに全員が同調し始める。


「黄戸菊さんにあんな事言って、最低」

「黄戸菊さんかわいそー」


 黙れ。


「あれは流石に酷いだろ。な?」

「ああ、ちゃんと謝れよ」


 黙れ。


「そうよそうよ、謝りなさいよ!」


 黙れっ。


「「「「あーやまれ、あーやまれ」」」」


 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!


 うちが席に着き、筆箱の中で鉛筆を握りしめたその時、


「皆さん、やめてください。十五夜さんも悪気があったわけやないと思うんです」


 あの女がうちの前に立った。


 あぁ、またお前か。

 そうとしか思わなかった。


 よく出来たマッチポンプだ。

 全員が全員、この女の手の平の上で転がされている。

 うちもその道具の一つでしかない。怒るのも馬鹿馬鹿しい。


 いつもの事だ。そう心を落ち着かせ、教科書を入れる為に机の引き出しを開けると、


「ひッ」


 その目に飛び込んできたのは、赤い屋根とはみ出た黒い虫。


 学校に仕掛けられていたゴキブリホイホイが入っていた。


「あはははははっ、引っかかった!」


「うぇー、きったねー」


「……十五夜さん、大丈夫?」


 いつもの事。いつもの事。


 うちは引き出しごと、ざわつく心をゴミ箱に捨てた。



 この日は、調子に乗ったいじめっ子達が、ひっきりなしに嫌がらせを仕掛けてくる最悪の一日だった。


 授業中にゴミを投げられ、

 トイレでは頭から水をかけられ、

 昼食は床に叩き落とされ、

 上履きは汚いと捨てられ、

 掃除ではゴミ扱いされる。


 その度に、何度も、何度も自分に言い聞かせた。


 考えるな。

 どうって事ない。

 自分より辛い人なんて大勢いる。

 いつもの事だ。

 いつか終わる。

 もう少しの辛抱だ。


 いつもみたいに我慢していれば、……時間は過ぎるんだ。




「……」


 うちは帰り道、いつも以上にボサボサになった髪を垂らし、公園へと足を運んだ。


 今日は母から、彼氏が家に来るから帰ってくるなと言われた。


 ボー、とベンチに座っていると、地面に白い斑点が出来ていくの気づく。


 どうやら、いつも以上に寒いと感じたのは気のせいではなかったらしい。


「……?」


 とそこで、視界の端にやけに綺麗に置かれた段ボールが見えた。


 やる事もないし、近づいてみると、


「……ミー」


 小さな子猫が一匹、体を震わせ丸くなっていた。


「……猫」


 うちは子猫を抱き上げ、ベンチに戻る。


 ……きっと捨てられたのだろう。


 この子の親を飼っていた人間は、勝手に産ませ、勝手に見放し、勝手に捨てたのだろう。


「……」


 この子はこれから、どうやって生きていくんだろう。

 逞しく育つのだろうか?それとも凍えて死んで行くのだろうか?


 自分が何の為に生まれて、何故生きなければならないのかも分からず、死んで行くのだろうか?


「…………ぁれ?」



 気付けば、うちは泣いていた。



 ポロポロと零れる涙は、次第に止められなくなり、何かが決壊したように溢れてくる。


 拭いても拭いても止めどなく溢れ、膝の上に丸くなった子猫へと落ちて行く。


 落ち着け、落ち着け、いつもの事だろ。どうって事ない、何も変わらない、いつもの事だろ。

 いつもの、いつもの……


「ミー?」


「っごめん、な。私なんかじゃ、あったかく、ないだろっ?ごめ、んな。ひぐっ」



 何でうちが、こんな目に遭わなくちゃいけない?


 何でうちだけが、こんな辛い目に遭わなくちゃいけない?


 何で、誰も味方になってくれない?



 何で、誰も助けてくれない?



 理不尽で、どうしようもなくクソな現実に嫌になり、うちは子猫を抱きしめた。


 ……その時、


 地面に影が差し、雪が止まった。


「……寒いやろ?」


「……何でアンタが」


 傘を差し、微笑む黄戸菊に、うちは驚く。


 そんなうちに構わず、彼女は「つめたっ」とベンチに腰を下ろした。


 数秒、気まずい沈黙が流れる。



「……何でここに来た?」


「……なんか死にそうな顔して歩いてたから、つけてきたんよ」


「……」


 ……何だこいつ。


「あの、……ごめん」


「何が?」


「その、教室で怒鳴った事」


「あぁ〜、ええよええよ。気にせんといて。あれは当然の反応やよ」


 教室で見る黄戸菊より、だいぶフランクな彼女に、うちは少し驚いてしまう。


「ねぇねぇ、紫苑って呼んでええ?」


「え、ええけど」


「紫苑は何でこんな所におるん?」


「……お母さんが帰ってくるなって」


「……ふーん」


 黄戸菊は足をぶらぶらしながら、何を考えているのか分からない顔で空を見上げる。


「うちさ、この一週間くらいで分かった事があるの」


「……何?」


「うち達のクラス、クソの集まりだね!」


「……へ?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「自分の事を偉いと勘違いしている低脳と、それに媚び諂う無能。見ていてえらい哀れやわぁ」


「え、ちょっと、何言って」


 だって彼女は、皆の人気者で、毎日が楽しい筈で。


「紫苑はその中で虐められてるんやから、誇っていいんやよ?アレ等とは違うって証拠何やから!」


 とても清々しい顔で笑う彼女が、うちにはとても黒く見えて、怖いと思った。



 ……でもそれ以上に、惹かれた。


「やったら何で、黄戸菊は皆と仲良くしてるん?」


「うちの居心地が良い空間を作るため」


「……なんか、凄いね」


「へへ、ありがと」


 黄戸菊は微笑み、立ち上がる。


 彼女のまっすぐな瞳に射竦められ、うちはゴクリと唾を飲む。


「紫苑さ、このままじゃ嫌やろ?」


「え、……そんな事」


「さっき泣いてたやん」


「っ……」


 そんなの、決まってるだろ。


「……嫌だ」


「聞こえない」


「嫌だっ」


「聞こえない」


「嫌だ‼︎」


 黄戸菊がニッ、と笑い、それにつられて堰き止めていた気持ちが一斉に溢れ出てくる。


「もうっ、虐められたくない!やり返してやりたい!ぶっ殺してやりたい‼︎」


「あははははっ」


 思いっきり息を吸い込み、曇天に向かって叫ぶ。



「お前等全員ッ、大っ嫌いだぁあああッ‼︎‼︎」



 大嫌いだと思っていた奴に、心の内を曝け出し、全てを吐き出してしまった。


 不思議な奴だと思った。変な奴だと思った。


 でも、うちという存在が認められた気がして、少し、……いや、凄く、嬉しかったのだ。



「紫苑、今日うち来ない?」


「え、でも」


「ええから、こんなとこずっといたら死んでまうよ?」


「……」


「よし決まり!」


「っ」


「ミー」



 ――手を引かれるまま、うちは彼女の家に来てしまった。


 促されるまま玄関を潜ってしまう。


「……」


 そこには、とても穏やかで、とても暖かな、うちが憧れていた、『普通』があった。


「あ、猫」


「ん?あー、どないしよ」


「紗命ー、帰ったの?あら、その子は?」


 彼女の母親と思われる、優しそうな女性と目が合う。


「お友達ー。今日泊まってええ?」


「別にええけど、向こうのお家に電話しなきゃ」


「大丈夫。紫苑虐待受けてるから、連れてきた」


「ちょっ」


 靴を脱ぎながらさらっと暴露した黄戸菊に、うちは慌てて彼女の母親を見る。


「っ……紫苑ちゃんって言うのね。それは本当?」


「いや、……はい、本当です」


「……そう。いつまでもいなさい。……今までよう頑張ったわね」


「――っ……」


 初めて掛けられた慈愛の言葉。

 ふわりと抱きしめられた腕の中が、とても優しくて、枯れた筈の涙が一筋、零れ落ちる。


 しかしその涙は先とは違い、暖かかった。



 ――初めて他人と入る風呂に、心臓がドキドキとうるさい。


「紫苑ちゃん、可愛いのに顔隠しとったら勿体あらへんわ。良かったら切ったろか?」


「え?」


「紗命の髪も私が切っとるんよ?」


「お母さん切るの上手いんやよ」


「ミー」


「は、はい。お願いします」


「よしっ、頑張っちゃうわよー!」


 それから数十分後。


 うちのボサボサだった長髪はバッサリと切られ、自信のなさそうな顔が丸出しになっていた。


 何だか、変な気分だ。初めて自分の顔をこんなにまじまじと見た気がする。


「凄い、可愛ええ!」


「うん、似合うてるでぇ」


「ミー」


「……ありがと」


 顔が熱くなるのを感じながらも、悪いとは思わなかった。



 ――「あなた、この子猫うちで飼うてええやろか?」


「……良いだろう」


「「やったー」」


「ふふっ」


 はしゃぐ親子を見て自然と零れた笑みに、自分自身で驚いてしまう。


 笑ったのなんて、何年振りだろうか。



 ――初めて囲む食卓でも、あまりの暖かさに自然と泣いてしまった。


「お父さん、紫苑これからも連れてきてええ?」


「……良いだろう」


 泣いている途中に頭の上に乗せられた大きな掌に、自分の知らない父親を幻視し、更に泣きじゃくってしまった。


 これは恥ずかしい。羞恥に震えながらも、心の中はとても喜んでいる。

 それが分かってしまい、うちはもう恥ずかしすぎて死にそうやった。


「……あなた、紫苑ちゃんの事、」


「……良いだろう」


「お父さん、紫苑学校で虐められてるんよ。何かあったら、」


「……良いだろう」


 母子に抱きつかれる大黒柱は、新しい家族の頭を撫でながら、ふんすと鼻を鳴らすのであった。



 ――「ねぇ、黄戸菊?」


「紗命でええよ」


「……紗命?」


「なぁに?」


 彼女のベットで二人で寝ていたうちは、寝返りをうち紗命の目を見る。


「ありがとう」


「ふふ、ええよ」


 どれだけ言っても足りない。今日という日に、うちがどれだけ救われたか。


 自分という存在が信じれなくなったうちに、紗命は優しく寄り添ってくれたのだ。


 彼女にとっては大した事ない事なのかもしれない、心地良い空間の為の一道具なのかもしれない、それでも、うちは彼女に救われたのだ。


「何難しい顔してるん?」


「っ」


 胸に顔を押し付けられ、抱きしめられる。


「……紫苑は迷子なんやね。自分が何処にいるか、何処に行けばいいか分からなくて、怖がっとる」


「……」


「なら、紫苑のゴールが見つかるまで、うちの近くにいればええよ。うちはずっと紫苑の味方やよ」


 その言葉に、うちは決意した。


「……紗命」


「ん?」


「……明日、見てて」


「ふふっ、……分かった」





 ――翌日、二人で登校したうちは、下駄箱を無視して土足で教室へと向かって行く。


 紗命が隣にいると思うと、最早怖いものなど何もなかった。


 教室のドアを勢いよく開け、見回す。……いた。


「えー!あないに虐められたのに、今日も来たんや!びっくりー」


「「「あははははは」」」


「……」


 笑い声など無視し、ズンズンとリーダー格へと歩み寄って行く。


「な、何や?」


「……」


 今思えば、何でこんなのに怖がっていたのか分からない。

 身長がデカいだけで、デブでブスの醜い豚だ。


 今のうちの方が、よっぽど可愛い。


「あ!こいつ土足で学校に入ってる!いけないん



 ――ッブべァ⁉︎………………へ?」



 近くの机を巻き込み盛大に倒れた豚は、鼻血を垂らしながら目を丸くしている。


 ハハっ、鼻が曲がってやがる。ザマァ見ろ。


 辺りは静まり返り、誰もが今起きた事に理解が追いついていなかった。


「――フゥゥ」


 うちはジンジンと痛む拳を握り締め、湧き上がる高揚感に口角を上げる。


「テ、テメえっ――ッグエ⁉︎」


 激怒した豚が起き上がる¬よりも早く、顔面に飛び蹴りを喰らわせる。


 醜い呻き声を上げる肉塊をに馬乗りになり、顔面を殴る、殴る、殴る。


「ひっ、や、やべでっ、グべっ、ごべん、ごべんなさいっ、いだいっ、いだいよぉ」


「うちの方が、痛かったんだよッ‼︎」


「ごびゃっ⁉︎」


 うちは荒い息を吐きながら、泣きじゃくる豚から降り、教室の隅へと行きある物を掴んだ。



 紗命、見ているか?


 お前のおかげで、うちは強くなれた。


 自分の居場所は、自分で作る。


 お前の為なら、うちは何でもするぞ。


「え、そ、それ、どうするづもり⁉︎ねぇ!紫苑‼︎」


「……気安くうちの名前を呼ぶな」


 赤い屋根を縦に破り、小さな家を開く。


「ちょっと、助けてや⁉︎皆‼︎」


「「「「……」」」」


 粘着シートに張り付く、三匹の黒い昆虫。


「嘘でしょ⁉︎、ちょっと!やめ



「死ね」



 ――ッブビャ⁉︎ッッッッッッ――」



 顔面にゴキブリホイホイをくっつけ、倒れたまま痙攣する豚。


 ああ、何て良い光景なんだ。


 クラスメイトの悲鳴が遠くに聞こえる。


 自分の中に蟠っていたザワザワが、消えて行くのを感じる。


「……ふぅ」


 その場に座り込むうち。


 その後ろでは、





 大好きな彼女が、頬を紅潮させ、黒い笑顔を浮かべていた。






 それからうちの生活は激変した。


 当然うちにちょっかいを掛けてくる人間は誰もいなくなった。


 あの後校長に呼び出されたが、紗命がうちへの虐めを全てボイスレコーダーに収めていたおかげで無罪放免。


 加えて紗命のお父さんが教育委員会に掛け合ったおかげで担任はクビ。

 居場所がなくなったリーダー格は転校。


 それでも一番は、厚生労働省推進の児童虐待防止団体がうちに来た事かもしれない。


 母はがなり立てていたが、うちの意向で、うちはそういった子が集まる施設に入る事になった。


 後から聞けば、これもお父さんが手を回してくれたそうだ。



 紗命とはお父さんの転勤が理由で中学を機に別々になってしまったが、それでも休みの度に集まり、遊ぶくらいの交友はあった。

 勿論家族全員でだ。


 黄戸菊家には感謝してもしきれないが、こんな事を本人達の前で言うと怒られるので心に留めている。


 そして中学を卒業し、うちはバイトをしながら、団体が協定を結んでいる大阪の夜間へ。


 紗命はそのまま東京の高校へ進学した。


 これからも、いつまでも、こんな幸せな生活が続くと思っていた。



 でも、十二月二十四日のあの日、日本が変わった。


 幸い、黄戸菊家は安全地帯にあり、お父さんとお母さんは無事やった。


 しかし、紗命本人がデッドゾーンに取り残されてしまっていた。


 最初は死ぬほど焦ったが、普通に電話が繋がった時は、もうなんか流石としか言いようがなかった。


 両親にクリスマスプレゼントを買ってあげようと、こっそり池袋に来ていたらしい。

 ほぼ確実に死ぬと言われているあの場所で、笑っていたのは多分彼女だけだ。


 そして心配しながらも数週間が経った頃、いきなり好きな人が出来たと報告があった。


 その時だ、うちに転移の能力が覚醒したのは。

 一瞬怒りで意識が飛ぶと同時に、数m先に移動していたのだ。


 それからは危険区域に忍び込み、能力を鍛えながら高校に通っていた。


 そんなある日、パッタリと紗命からの連絡が途絶えた。家族に聞いてみても、連絡は行っていなかった。


 家族はやめろと言ったが、うちに信じる事なんて出来なかった。


 それからは高校をやめ、徹底的に能力を鍛えた。






 ――彼女を探す。ただそれだけの為に。

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