第108話
飼育員の彼の頭の中は、只今絶賛混乱中であった。
(え、人?人……ですか?顔見えないんですけど。でも女の子は人ですし、何であんな大きなリュックしょってるんですか?重くないんですか?……いいえ、落ち着きなさい。落ち着きなさい私。多分人です。人ならお客様です。おもてなし、そう、おもてなしをしなければっ)
我に返った彼は、顎を戻し二人に向き直る。そこで、少女が何かを訴えているのに気付いた。
「え?なんです?……あっ」
指さす先に視線を移すと、アザラシが最後の餌を飲み込む瞬間だった。
――「ようこそお越し下さいましたっ」
慌てて二人の前に顔を出す飼育員は、改めて歓迎のお辞儀をする。胸には平仮名で書かれた、かとう、のプレート。
「驚かしてすみません。館内がとても綺麗でしたので、つい散策してしまいました」
東条に話しかけられ、一瞬ギョッ、と肩が跳ねる。
「そう言って貰えると嬉しいです。綺麗にしていた甲斐があります」
「その、ここにはお一人で?」
「はい。……皆殺されてしまいました。今は私一人です」
そう言う彼の目は、どこか達観していて、悲しみはさほど浮かんでいない。
「こんな時にいらしてくれたんです。立ち話も何ですし、案内でもさせてもらえませんか?」
「勿論。いいよなノエル」
「ん。かとう、動画映ってもいい?」
ビデオカメラを指さし、一応許可を取る。
「動画、ですか?」
「ここ近辺の状況を配信して、金稼ごうとしてるんです」
「それはそれは、何とも強かなお嬢さんだ。勿論構いませんよ」
「ん。ありがと」
笑って承諾する飼育員に案内され、彼等は再び水の神秘を知るべく歩を進めた。
――「私はここの館長をやっていましてね、あの時は一人奥の部屋で休んでいたんです」
東条と二人並びながら、彼はクリスマスの日の事を思い出す。
「それは突然でした。下から悲鳴が聞こえ、気付いた時には、見たことのない獣や、犬の頭をした小人みたいのが人間を襲っていたんです」
(犬の頭……コボルトか?)
まだ見ぬモンスターに予想をつける。
「その犬頭の力量とか分かります?」
「力はそれほど強くないですね。ただ数が多いです。武器は爪や道具で、ほら、私も引っ掻かれました」
彼が腕を捲ると、治ってはいるが四本の爪痕が残っていた。
「それでですね、私は怖くて、鍵を閉めて閉じ籠ったんです」
「見てまさっ、ニモっ」
話を遮りはしゃぐノエルに、かとうが微笑む。
「お前なぁ、こういう話撮った方が再生回数伸びると思うぞ?」
「確かに。まさよろしく」
「……なんて勝手な」
カメラを渡され、その気分屋な性格に東条は呆れる。
「すみません」
「はっはっ、いいですよ。魚に興味を持ってくれるのは嬉しいです」
かとうはニモを見つめるノエルに近づき、一緒に水槽を覗き込んだ。
「ノエルさん、カクレクマノミには一つ秘密があるのですが、ご存じですか?」
「ん?知らない」
「実はですね、カクレクマノミは、生まれた時は全員オスなんです」
「「え」」
東条とノエル声が重なる。
「段々と成長していくにつれ、最も身体の大きな個体がメスになるんですよ」
驚愕の事実。
そしてそこから、ある結論が導き出せる。
「……じゃあ、ニモのお父さんって」
「確かに。……え、あれってそんな深い話だったの?」
「それは考えすぎだと思いますよ」
ダズニーに変わって、かとうが笑って否定した。
カメラを任された東条は、慣れない手つきでかとうを映す。
「そうして一日中隠れて、音が止んだ後、私は外に出たんです。それで目に入ってきたのが、この光景です」
館内に生える、トレントを映す。
「私は館内に人が残っていないか探しに行きました。しかし誰も見つけることはできず、代わりに、奴とばったり鉢合わせてしまった」
「コボルトですね?」
「コボルト?」
「あぁ、犬頭です」
「なるほど。あれはそう呼ぶんですか」
かとうは納得し、話を続けていく。
「怖かった。怖かったのですが、奴は、私達の大切な魚を食い散らかしていたんです」
穏やかだったかとうの語調が、怒りに強くなる。
「そこからは私も信じられない事が起こりました。激怒した私は、見える範囲の水を操り、搔き集め、そのコボルトを溺死させたんです。
勝手に水ごと運んでしまった魚達を元の場所に戻した後、すぐに強烈な頭痛に襲われ倒れてしまいましたが」
(……なるほど。水魔法の使い手か)
どうしてこの人が生き残れたのか、東条はようやくその答えを知った。
これ程の水がある場所に、ほぼ密室の閉鎖空間。もしこの場全ての水を自在に操れる者がいるのなら、それは最早無敵に近い。
「それからは、入ってくる化物は殺し、水槽を綺麗にして、偶に食べ物を調達しに行く毎日ですよ」
歴戦の飼育員は、笑ってそう締め括った。
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