「ショートカットの少女」
まだ一人の生徒もいない早朝の学校。
その老朽化した金網に空いた穴の前で、僕は初めて人に会った。
それは、黒髪のショートカットの女の子だった。
「……君もここ、使ってるの?」
壊れた金網は正門を通らずに学校の敷地内に入れる数少ない通路だった。しかし、あまりにも目立たない場所にあるため、この通路のことを知っている生徒はほとんどいない。現に、僕は今日までこの場所で誰かに出合ったことはなかった。
「じゃあ、共犯だね。このことはお互いに秘密にしとこ!」
彼女は、そう言ってはにかんだ。
彼女の短い黒髪に、風が甘えるようにまとわりつくのをぼんやり見つめながら、僕は曖昧に頷くことしかできなかった。
それからというもの、毎朝彼女とはそこで出会うようになった。何度か会っているうちに軽い挨拶くらいはするようになった。
彼女は同学年で、別のクラスの子だった。
バレー部に所属しているが、今はまだ補欠らしい。
「だから、朝練に来てるんだよね。この穴から行くと体育館までまっすぐ行けるからさ!」
近道だよ、ちかみち~と彼女は屈託なく笑った。
彼女は短い黒髪というヘアスタイルそのままに、快活な女の子だった。彼女が見せる笑顔は充実した日々に裏付けされたものに見えて、色々なものを避け続ける人生を送る僕にとってはまぶしすぎた。
「君はどうしてこんな朝早くに、あんなところから学校に入ってるの?」
「……あんまり人に会いたくないんだ」
「いじめとか?」
「いや、そういうんじゃなくて……」
僕は根本的に人と関わるのが苦手だった。明るく声をかけてくる同級生も、心配そうに声をかけてくれるクラスメイトも、無理に交友関係を結ばせようとする先生も苦手だった。
別に人間不信とか、そういうわけではない。
友達が一人増えるたび、その子の趣味を覚えて、部活を覚えて、誕生日を覚えて、こまめにラインに返事をして、交友関係に配慮して、定期的に遊びに行って関係性を継続して……なんて考えると、人と関わるのがしんどくなってしまう。しかもその関係の大部分は卒業すれば消滅してしまうなんて、さらにやるせない。
なるべく人と関わりたくない。生活に支障が出なければそれでいい。だから、なるべく人のいない早朝の、誰も使わない通路を使うようにしていた。
「ふーん。確かに部活の人間関係とか、めんどくさいなーって思うことはあるかもなぁ。今の主将と、私の代のキャプテン候補の派閥争いみたいなのもあるし。特に私、補欠だから肩身狭くてさ~」
彼女は僕の話にもあっけらかんと答えた。
「え、今の僕の話聞いて引いたりしないの?」
「ん? いや別に? まあ、ちょっと暗いなーって思いはするけど、気にしないよ。君の人生だし、好きに生きたらいいと思うよ」
彼女は当然のようにそう言った。
さばさばした、僕にとっては心地いい無関心だった。
それから、何度か彼女に金網の前で会うことがあった。僕と彼女はあまりにも違い過ぎて、お互いを上手に無視することができた。
彼女が部活での苦労話をしても、僕は平然と聞き流すことができたし、彼女も僕の考え方にとやかく言うことはなかった。
心配しすぎない。
干渉しすぎない。
お互いの言葉が相手に影響を与えることがない。
お互いのことに踏み込むようなことはしない。
僕は、この彼女との気楽な関係が気に入っていた。
ある日、学校に行くと金網がふさがれていた。
それは、僕と彼女の関係性が終わることを示していた。
「あらら……とうとう塞がれちゃったかー」
彼女はさして悲しそうでもなくそう言った。
「ちぇー。めんどくさいけど正門から回らなきゃダメかー」
「……そうだね」
「君とここでこうして話すのも最後かー。名残惜しいものがあるねー」
明るく、軽い調子で言う彼女の声には湿っぽさはほとんどなく、今まで通りの適切な距離感が感じられた。悲しむでもなく、惜しむでもない。安全で何も起こりえない距離感だ。
それでいい。
それがずっと心地よかったはずだ。
なのに……。
その声に、なぜだろう。僕は言い知れない寂しさを感じた。
「仕方ない。正門の方行きますかー」
「……ねえ」
「ん?」
僕の声に、彼女は振り返った。彼女は初めて会ったときと同じように、短い黒髪だった。早朝の柔らかな光が彼女の髪に反射している。屈託のない笑顔は、やっぱり僕にはまぶしくかった。その輝きは、出会ってから僕らの関係性が少しも変化していないことの証明だった。
「……ごめん。何でもない」
それから、しばらく僕と彼女は本当に話すことが無くなった。どうやら彼女はバレー部のレギュラーをつかみ取り、より朝早くから朝練に取り組んでいるらしい。
もともとあった僕との距離はさらに広がったように思え、言い知れない寂しさを感じた。
僕には寂しがるような権利なんか無いのに。
僕はそれから、ほとんど毎朝塞がった金網の前を通った。
補修された不自然に色が違う金網を見るたび、「未練」としか言いようがないような醜い感情が沸き上がった。
もしあの時。
彼女の趣味を聞いていれば。
誕生日を聞いていれば。
ラインを聞いていれば。
交友関係を知っていれば。
遊びに誘えていたら。
煩わしさを越えて、少しでも彼女に踏み込んでいたなら……。
「なんだ。結局僕は……」
翌日、僕は今までで一番早起きして、正門の前に立っていた。彼女は金網を通っていた時よりも少し早く門のところにやってきた。噂通り、朝練の量は増えているらしい。
「あれ、どうしてこんな時間に?」
朝のぼんやりした光が彼女を包んでいる。
彼女の黒く短い髪が風で膨らんだ。
その様子を見て、僕は、僕の気持ちに確信を持った。
「……たまたま早起きしちゃったからさ。話したくなったんだよ。いいかな?」
「別にいいけど……」
彼女の顔には困惑はあったが、僕への好意は見受けられない。
それも仕方がない。そう簡単にいままでの関係性は変わらない。
でも、それでいいと思えた。
恋路に都合のいいショートカットなどないのだから。
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