「名前」
吾輩はバックダンサーである。名前はまだない。
普段本なんて読まない私でも知っている小説の冒頭をもじってみる。
面白くもない。
そもそもバックダンサーに名前などあってはならないのだ。
学生時代から踊ることが好きで、それを職業にできたらどんなに幸せだろうとずっと思ってきた。そういう意味では今私は夢をかなえていると言える。世間一般で見れば、私は幸せ者なのだろう。
とはいえ、自分の今の人生に何の不満もないと言えば、それは嘘になる。
「おはようございます!今日はよろしくお願いします!!」
控室でダンスチームのみんなと昼食をとっていると、今日の主役のアイドルが入ってきて挨拶した。隣にはマネージャーらしき人が立っている。
彼女は可愛らしい顔をしているし、愛嬌もある。衣装の着ならしでもしていたのだろうか。ステージ衣装に身を包んだ今の姿は煌びやかだった。見る人誰もが、彼女がアイドルであることを疑わないだろう。
だが、ずば抜けて顔のパーツが整っているわけではないし、歌が上手いわけでもない。ダンスに至っては、申し訳ないが確実に私の方が上手い。通し練習で一緒に踊ったときは、覚えた振り付けを一生懸命なぞっているだけという印象だった。
私と何が違うんだろう。
何が私と彼女を分けているんだろう。
時々、そんなことを思う。
私自身がステージの中心で歌って踊りたいか、と言われれば正直微妙だ。別にアイドルに憧れがあるわけではない。
それでも、スタッフの対応が、ファンから彼女への贈り物の山が、観客の声援やサイリウムの揺らめきが、私の劣等感を揺さぶる瞬間がある。
結局、誰も私達を見てないじゃない。
そんな諦めがどこかいつも、私の心をどんよりさせた。
「今日は最高のライブ、一緒に作りましょうね!!」
ほんとにそう思ってる?
彼女の言葉に、嫌味な感情が浮かびあがった。
ふいに浮かんだ自分の醜さが見透かされないように、私は他のメンバーと同じくらい大きな音で彼女に拍手を送った。
アイドルが私たちの控室から出て行ったあと、後輩の真由美が私に話しかけてきた。
「先輩先輩」
「何よ」
「これ、名前何でしたっけ?」
真由美は弁当に入っている緑色のギザギザしたものを箸でつつきながら言った。
「名前なんてあるの?それに」
「あるんですよ。前テレビでやってたんですけど、何だったかな……」
「どうでもいいじゃない、そんなの」
「いやいや、名前があるって大事なことですよ。同じじゃないってことですから。うーん……ここまで出かかってるんだけど……」
「飲み込んじゃいなさい」
のどから何か上がってくるジェスチャーをする真由美に、私はそっけなくいった。
「だいたい、何のためにあるのよ。この緑のギザギザ」
「確か、他のおかずに味が移らないようにするためだったような……」
「だったら別にこれじゃなくてもいいじゃない。薄いビニールみたいなのなら何でもいいわけでしょ?」
「うーん。確かに……。でも、ないとなんか寂しいじゃないですか」
「そ。何か私たちみたいね」
「え?」
「ううん。何でもない」
私は会話を切り上げ、弁当箱を捨てた。
本番直前。私たちは舞台裏で待機する。今回の会場はかなり大きく、私たちバックダンサーの人数も30人近い。
メンバーは、多少の違いはあっても、ほとんど全員同じ衣装を着て、同じようなメイクがほどこされている。メイクはとても派手で、もともとの顔の特徴は隠れてしまっている。
長く一緒にいるメンバー同士はお互いが誰だかわかるけれど、観客席から見たら私たちの違いはほとんどないだろう。
でも、それでいい。アイドルの周りで踊る私たちに個性があってはならない。
あくまで、中心の彼女を目立たせることが私たちの存在理由なんだから。私たちが目立つようなことがあってはならない。
そう自分に言い聞かせる。
「じゃあ、あなたじゃなくてもいいわよね」
そんな内心のつぶやきを振り払うように頭を振った。
「みんなーーーーー!!!今日は来てくれてありがとーーーーー!!!!」
主役の彼女の一言で観客の大歓声が起こり、ライブが始まった。
彼女にピンスポットが当たる。
言葉一つ一つに観客が応える。
彼女の動きに合わせて揺れ動くサイリウム。
大きな液晶には彼女の姿が大写しになっている。
照明、カメラが彼女を美しく見せるため、その技術の限りを尽くす。
一曲一曲、進むたび、会場のボルテージはどんどん上がっていく。会場中のあらゆる意識が彼女に集まっていく。まさに今、彼女は神様だった。
一方の私達も粛々と自分の職務を全うしていた。
彼女に当たるスポットライトの光の残余の中で。
似たような衣装で。
似たような化粧で。
似たような動きで。
私たちは踊り続けた。
今日の私の身体はかなり調子が良いらしい。練習通りに、頭で描いた通りに身体が動く。今のところ連携にミスもない。
程よい緊張感の中、完璧に私たちは仕事をこなしている。他のダンサーや観客との一体感に、私の身体は心地良さを感じている。いいパフォーマンスができていると確信できる。
だからだろうか、頭の中では余計なことを思ってしまう。
動きが完璧であればあるほど、「私」である必要はどんどん薄まっていく感覚がする。どんどん体温を上げていく身体に対して、「私」の心はどんどん冷え切っていく。
間違えたって、誰も気づかない。
完璧に踊っても、誰も気づかない。
たくさん練習したのに、誰も見ていない。
そもそも私じゃなくても、誰も気づかない。
そんな投げやりな気持ちが澱みたいに心に溜まっていく。
ふと、「私」が身体から切り離され、踊る身体を上から見ているような感覚に陥った。
私の身体は「私」がいなくても完璧に踊り続けている。
会場の上から見ると、踊る私の身体は他のダンサーと本当にそっくりだ。遠くから見ると全く区別がつかない。皆、中心のアイドルだけが一人浮き立ち、それ以外は全部同じに見えてしまう。
……あれ、私の身体、どれだっけ。
そう思った瞬間、視点がもとに戻った。ステージ上で観客を見上げる視点。背中を伝う冷たい汗を感じる。ちょうど曲が終わったところのようだ。
ちょっとだけ強く頭を振る。
できるだけ何も考えないように意識しないと。
とにかく、今日のこのライブを乗り切らないといけない。
私のモヤモヤした気持ちを知ってか知らずか、アイドルは明るい曲調の、誰に向けているかわからない甘酸っぱい歌詞のラブソングを歌い始めた。
私は無理やり口角を上げて、曲に合わせてステップを踏んだ。
「打ち上げ、行かないんですか?」
「うん。ちょっと今日は疲れちゃったから」
ライブが終わって、控室であいさつ諸々が終わった後、真由美が残念そうに言った。
ライブは一応大成功に終わった。控室でアイドルの彼女は涙ながらに私たちにお礼を言った。その言葉に嘘は感じられなくて、ライブ前に醜い感情を抱いたことにばつの悪い気持ちになった。今彼女と一緒に食事をするのは少し気が引ける。
それに、ライブ中にあんな余計なことを考えていた私は打ち上げに参加する権利はないように思えた。
「ごめんね。次のライブの時は行くから」
「わかりました。お大事にしてくださいね!」
「ありがとう。またね」
私が荷物をまとめ、会場を去ろうとした時、
「あ!! 思い出した!!」
真由美が大きな声を出した。
「なによ」
「バランですよ、バラン!」
「なにがよ」
「あのお弁当に入ってる緑色のギザギザの名前です! やっと思い出した~」
すっきりした顔をする真由美に、私も毒気を抜かれた。
「そう……あんなものにも名前があるのね……」
「そうですよ。ダンサー一人ひとりに名前があるのと同じです」
「え?」
真由美の唐突な言葉に私は面食らった。
「みんな知らないだけでちゃんと名前があるんです。名前があるってことは別の何かじゃないってことなんですよ。だから」
真由美ははにかみながら続けた。
「……なんでもいいとか、誰でもいいなんてことないと思いますよ。じゃあ何が違うんだって言われたら困っちゃいますけど」
私は驚いて、口が半開きになってしまった。
「……お昼の、聞こえてたの?」
「ええ、まあ」
「聞こえてるなら言いなさいよ……恥ずかしい」
「先輩ちょっと悩んでるっぽかったので、口出さない方がいいかなって」
余計に恥ずかしい。私、そんなにわかりやすいのだろうか。
「というか、違いが説明できないんじゃ何の解決にもなってないじゃない」
「いいんです!説明できることだけが全部かどうかなんてわかんないじゃないですか!」
「詭弁じゃないそんなの……」
呆れるように言いながら、肩の力が抜けていることに気づく。
少しだけ、私の無気力のようなものはぬぐえたような気がした。
後輩の言葉がきっかけなのは癪だけれど。
「そろそろ行くわ。またね真由美」
「はい、次も頑張りましょー! 祥子先輩!」
会場から最寄の駅まで歩いていると、アイドルのファンらしき集団が何組か見受けられた。ライブの興奮冷めやらぬ様子で何やら熱心に話し込んでいる。
もちろん、誰も私には気づかない。
しかし、今はそれも気にしないでいられた。
吾輩はバックダンサーである。名前は祥子。
それに何の意味があるのか。それはこれから見つけることにしよう。
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