「n+1回目の婚約破棄」
「もう、限界だよね。私たち」
彼女は悲痛そうな顔をしている。本当に僕らが特別な関係でいるような感覚に引き込まれる。
最後の言葉は僕から言う。
「別れよう……。僕らが前に進むには、それが一番だ」
はい、オッケー!!
舞台の下から見ていた先輩の声がする。その瞬間、僕らは婚約者から只の演劇部員に戻った。
文化祭の前日練習を終え、皆で駅まで帰る途中、彼女が僕に話しかけてきた。
「ねえ、私たち何回練習したんだろうね?」
「覚えてないよ」
「じゃあ、任意の自然数n回ってことね」
「なんだそれ」
「数学で習ったじゃん」
「じゃあ僕はn回君と婚約したわけか」
「そう、そしてn回婚約破棄したの」
「ひどいな」
彼女は分け隔てない。僕とも平然としゃべる。僕は彼女のその気軽さにいちいち動揺したが、話す度に彼女の屈託なさにいつの間にか惹かれるようになっていた。
だが、僕と彼女がする会話は彼女が他の部員とする会話と何ら変わりなく、それは彼女にとって僕が特別でない事の何よりの証拠だった。何度も婚約者の役を演じても、舞台の上で特別になっても、それは変わらないように思えた。
「明日で文化祭も終わりかー」
彼女は僕に笑顔を向けた。
「今日までありがと。明日、よろしくね」
そう言った彼女の表情に寂しさが見えたのは、僕が彼女に何かを期待しているからだろうか。彼女は前を歩いている別のメンバーと話しに去っていった。
文化祭当日、会場には思ったよりお客が入っていた。席がほとんど埋まっている。それでも彼女の演技はいつも通りだった。彼女の演技に引っ張られるように僕も練習通りの演技ができた。
そして最後のシーン。
「もう、限界だよね。私たち」
僕は最後のセリフを言うため、彼女の顔を見る。
その瞬間、気づいた。
彼女の顔はn回見てきた。いつもと違う。
彼女の眼に役と関係ない切なさが浮かんでいる。
彼女もまだ僕と特別でいたいと思ってくれているのか?
そんなはずはない。盛大な勘違いだ。
でも、その目を見た瞬間、僕は頭の中のセリフが飛んだ。
僕が次のセリフを言ったら、僕は彼女の特別じゃなくなる。
嫌だ。
まだこの役を続けていたい。
終わってほしくない。
君とずっと特別でいたい。
「……いやだ。別れたくない。僕は、君が好きだ」
慌てる舞台裏。ざわめく客席。
ぼうっとした頭の中で、彼女の驚いた表情だけが鮮明だった。
こうしてn+1回目の婚約破棄は、失敗に終わった。
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