秘匿情報
第297話 西園寺流すき焼き
質素を旨とする西園寺家のすき焼きの割り下には、純米酒でも最低品質の酒が使われるのが慣わしだった。嵯峨惟基も、兄である西園寺基義もそのまま割り下に使った残りの燗酒を使って手酌で飲み始める。
「どうだ……ああ、肉はケチるなよ」
西園寺義基のその言葉を聞くと、嵯峨は筋張った安物の肉をぐらぐらとゆだる鍋に放り込んでいく。殿上会に初めて顔を出した嵯峨はそこで浴びた冷ややかな視線を思い出して皮肉めいた笑みを浮かべながら、鍋を暖める電熱器の出力を上げた。年代モノの電熱器のコイルの赤く熱せられた光がちゃぶ台を赤く染める。
「ああ、そう言えば康子姉さんはどうしたんすか?」
嵯峨の言葉に西園寺義基にんまりと笑う。
「ああ、なんでもかえでの家督相続の披露のことで相談があるとか言ってたな。かえでや赤松夫妻なんかとお出かけだそうだ。残念だったな」
そう言うと西園寺は煮えた肉を卵の溶かれた取り皿に移していく。
「めんどくさいねえ。俺の時はまったくなんにも無かったのに」
「そりゃあ、お前さんの家督相続の時は戦時中だったからな。しかもうちは売国奴扱いされた家だ。派手な披露なんてできる状態じゃなかったろ?それに理由は……いや、このことは言わねえ方がいいか……」
そう言う西園寺の顔は笑っていなかった。当時のことを考え出せば二人とも同じ人物、嵯峨の妻エリーゼのことを思い出すことになる。
父、西園寺重基は先の大戦では強硬に開戦反対を唱え、地球討つべしの世間の流れに逆行することとなった。事実上、四大公爵家筆頭としての地位を取り上げられ、軍部の執拗な監視の下に押し込められた彼が帰国した三男西園寺新三郎の嫁エリーゼと仲の良い孫、かなめとかえでを迎えに行ったとき、暗殺者の爆弾が炸裂した。
姪のかなめをかばうようにして伏せたエリーゼは病院に搬送される途中で息絶えた。世間では気さくで世話好きな兄貴肌と評される西園寺義基が目の前の弟に再婚を勧めることをしないのは、弟の妻を守れなかったという負い目を知っているからだと思われていた。
「まあ、ようやく思い出になるかもしれない……と思いたいですね」
「おう、思い出か?そりゃあ良い事だ」
西園寺義基の顔が微笑みに満たされる。その娘、かなめとよく似たタレ目を見つめると、つい嵯峨は本気の笑いに飲み込まれていった。
「笑いすぎだぞ。それよりこっちの春菊。苦くなる前に取っとけ」
そう言って西園寺義基は春菊を取る。嵯峨もそれに合わせるように春菊と白滝を取り皿に移し変える。弟のその手つきを身ながら西園寺義基はちゃぶ台に取り皿と箸を置くとゆっくりと話し始めた。
「俺の苦労もわかってくれよな」
西園寺義基の言葉に嵯峨は思わず目をそらしていた。
「四大公の籍を抜くってことの意味はわかってるだろ?議会やら野党やらがお前さんが遼南の次は胡州の帝位に着くんじゃないかって言う憶測が流れて……」
「そのくらいのことはわかってますよ……俺の復位は無いですよ。ましてや胡州帝なんて……遼南ですが、そっちの方は茜がなんとかするでしょ」
嵯峨は兄の言葉を聞きながら春菊を頬張った。
「今回の殿上会前の国会だって烏丸の嬢ちゃんの取り巻きが騒ぎ立てて大変だったんだぜ……」
西園寺義基はそれだけ言うと静かに自分の猪口に酒を注ぐ。胡州帝国の帝位は遼南皇帝が就くと言う慣例が崩れてから二百年が経っていた。皇帝のいない帝国。そんな状況に西園寺義基の足元である民派からも嵯峨の皇帝の即位を求める声があった。法整備と経済運営に手腕を発揮して遼南復興の道筋を開いた嵯峨の政策を見た人々は、彼による遼南帝家による胡州元首復帰を公然と求める動きすら二人の下には届いていた。
そんな無責任な噂を抑えてきたのは家臣である公爵が玉座に着くことは矛盾があると言う西園寺義基の憲法解釈によるところが大きかった。嵯峨はそれに合わせるように、常に署名には嵯峨の所有する領邦から呼ばれる別号『胡家泉州公』と記して胡州の反西園寺派に配慮した態度をとり続けた。
だが、今や嵯峨は公爵家の家督をかえでに譲り、形の上では嵯峨宗家とは縁が切れる形となっていた。そして嵯峨惟基の遼南帝国皇帝退位宣言は、現遼南帝国宰相、アンリ・ブルゴーニュを首班とする内閣に無効を宣言されていた。このことで理屈の上は嵯峨惟基は胡州帝国の皇帝に即位する権利を有していることになった。
元々自国に敵の多い嵯峨が皇帝として君臨することを恐れる勢力による宰相西園寺義基への圧力を想像できないほど嵯峨は愚かでは無かった。だがそれをてこにどう動くか。政治的位置の違う兄弟のいざこざをこの十年余り繰り返している弟を見ながら西園寺義基は諦めたようなため息をついた。
「まあ、どうにかなるだろ」
西園寺義基はそう言うと再び取り皿を手に取った。嵯峨は自分の皿に取り置いていた安い肉をゆっくりと口に運ぶ。
「肉ばかり食べるなよ。焼き豆腐。もういいんじゃないのか?」
西園寺義基はそう言うと鍋の端に寄せてあった焼き豆腐とねぎを自分の取り皿に盛り上げた。そしてその箸がそのまま卵に絡めた肉に届いたときだった。
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