6
となりで春川が泣いている。
傷つけてしまったことを思い、胸が張り裂けそうになる。からだのあちこちが内出血したような不快感に覆われる。生徒の苦しみに寄り添うというシキナの言葉が頭をよぎる。ダメだった。僕はきっと、春川の苦しみを増やしてしまったのだろう。
またミスをした、と僕は思った。
しかもそれは、よく吟味されたミスだった。準備され尽くしたミスだった。つまりそれは、僕の本質から出たミスだった。都合よく避けられた可能性のない、僕の本質に根ざしたミスだった。
きっと春川は僕をゆるさないだろう。
先生をゆるしてほしい。僕の情けない心が、甘ったれた僕の心が、そうつぶやかせる。傷つけるつもりはなかった。そんなつもりじゃなかったんだ。ちゃんと思ったことを、先生が感じたことを、誠実に、偽らないで、伝えることが必要だと思ったんだ。だから。
へ?
場違いに間の抜けた春川の声が聞こえる。僕は思わず首を向ける。涙にまみれた春川の顔が、どことなく素っ頓狂な表情で僕を見ている。なにいってるの先生?
なにって。僕は困惑を隠しきれずつぶやく。傷つけてしまって、申し訳ないって。
わたし傷ついてなんてないですよ。涙に濡れた目で春川は僕を見つめる。
でも、泣いている。
うれしくて泣いてるんですよ。涙を拭いながら春川はすこしだけ笑う。膝の上のノートに指をさす。先生が、丁寧に読んでくれたこと、うれしくて泣いてるんです。だってそんな、赤線引いたり書き込みをしたりして、わたしが書いたもの、理解しようって、すごく頑張ってもらって。先生、それってすごくうれしいんですよ。滅茶苦茶うれしいやつなんですよ。
でも。僕は春川の言葉が信じられず、なおもつぶやく。先生はけっきょく、よくわからなかった。
それはわたしの技量不足というやつです。春川はきっぱりという。その点、むしろわたしのほうが申し訳なく思います。せっかく時間を使ってもらったのに、楽しませられなくて。楽しませられるようなものを書けなくて。
楽しませる。僕は春川の言葉をくり返す。そして尋ねる。春川は、誰かを楽しませたくてこれを書いた?
まず第一に、わたしが楽しむために書きました、と彼女はいう。誰かに読んでもらうことは、考えていませんでした。でも、読んでくれるなら、そのために時間をかけてくれるなら、その人にも楽しんでもらいたい。そう思うことは、自然なことだと思います。
僕は目を閉じて静かに考える。
理解が追いつかない。春川のいうことはなにもかもがわからないことだらけだ。僕の理解できる範囲を軽々と越えている。
でもきっと、その理想はシキナが持つものに、とても近いのだと思う。
春川が書いたものは、ノヴェルと呼ばれる。僕は心を決め、静かに口を開く。一説には述べるという言葉が変化したものとされるが、ほんとうかどうかはわからない。ともかくそうやって、言葉で物語を創る作業を、かつてそう呼んでいたらしい。そういう作業に没頭する人が、かつていたということだ。
春川はかすかに目を見開く。
いまもいる、と僕は告げる。まだ多い数ではないけれど、その失われた文化に情熱を捧げる人たちが、いまもひそかに存在している。彼らはカクヨムと呼ばれる秘密の電脳空間に集まって、みずからが書いたノヴェルを共有して、読み合っている。読んで感じたものごとを、語り合っている。そういう場所がこの世界の片隅に、ひっそりと作られているんだ。
春川はそこへいきたいか、と僕は尋ねる。賢い選択なんてないんだとシキナはいった。どちらを選んだとしても、苦いものは残る。僕は春川の答えを待った。春川は目を見開いたまま、すぐには答えなかった。沈黙は長く続いた。でもきっと、春川がどちらを選択するかなんて、答えを聞く前からわかりきっていたのだ。
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