春川桜子はそれから三日学校を休んだ。

 僕は三日とも、昼の休み時間にはあの公園のベンチに座った。サクラの老樹は順調に花弁を振り落とし、緑の勢力が存在感を増していた。

 三日目の昼、ベンチに休んでいるとふいに空襲警報のサイレンが鳴り響いた。うつろな都市にうつろな音がこだましていた。僕は腰を上げなかった。どうせアメリカ軍機が来襲したところで、爆弾を落とすはずもない。ここがダミー都市であることくらい、彼らだってわかっている。サイレンのやかましい爆音を意識から払いのけようと苦労しつつ、僕はいつものように使い込まれたノートに目を落とした。そこに羅列された文字が形作ろうとする意味を、なんとか読み取ろうと努めていた。

 先生?

 鳴り続くサイレンを背景に、ふと聞き慣れた声がする。顔を上げる。私服姿の春川が、そこに立っていた。

 ずる休みは感心しないな。僕はにやりと笑って彼女の顔を見つめる。

 すみません。そうつぶやきながら春川の目は、僕の膝の上のノートに釘付けられている。

 じきにサイレンもやむと思う、と僕はいう。そして続ける。話したいことがあるから、ここに座らないか? たぶん春川はなにかをつぶやいたと思うけれど、それはサイレンの音にかき消されて聞こえなかった。なんにせよ、彼女はいわれるまま僕のとなりに腰を下ろして、それからぎこちなくノートへと視線を落とした。

 サイレンが終わった。

 僕はゆっくりと息を吸い込む。すこし震える。でも、ともかく口を開く。

 俺にはよくわからなかったんだ、と僕はいう。ゆっくりと言葉を続ける。君の書いたものを何度も読み返したよ。文章の内容はもちろんわかる。誰がなにをして、どうなって、という意味はちゃんと拾い取れる。でも、それだけなんだ。俺には文章しかわからないんだ。例えば冬子という人のことが書かれているけど、じゃあこの人はどんな顔なんだ、ということがまるでわからない。想像できなくて、だから冬子が悲しい顔をしたと書かれても、それがどんな顔なのか、わからないんだ。

 それにそもそも俺は悲しくない、と僕はいう。冬子が悲しんだというのは、文章として理解できる。たぶんそうなんだろう、と思うことはできる。でもそれが、俺自身にどういう意味を持つのか、わからなかった。俺自身はここに書かれた人たちのことについて、真剣になることはできない。それをどう取り扱っていいものなのか、正直なところ、途方に暮れてしまったんだ。

 春川がちいさく震えるのが目の端に映る。でも、続ける。

 俺としては、こう思わざるを得なかった。人を創り出すのは、難しい。並大抵のことじゃないんだということを、つくづく感じた。気迫は感じる。すごい熱量で、この人たちが生み出されたんだということは、読み返すたびにすごく感じられた。春川がどれだけ真剣に向き合っていたか、痛いほどよくわかった。それなのに、ダメなんだ。俺はどうしてもこの人たちを生きた人間として感じることができなかった。嘘をつくことはできたかもしれない。でもこれを読んだとき、その意味はわからないなりに、春川の真剣さを見せつけられて、嘘はつけなくなった。この文章を何度読み返してみても、俺にはよく、わからなかったんだ。

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