量子暗号回線を使って、何ヶ月かぶりにシキナへ連絡を取った。今晩八時、おなじ量子暗号回線で電話できないか? いいよ、としばらくして返事が来た。

 そちらから連絡をくれるなんてめずらしいね。回線を通してひさしぶりにシキナの声を聞く。元気してた?

 つつがなく暮らしているよと僕は答えた。そっちも、忙しいみたいで。

 おかげさまでね。

 僕は、春川桜子について洗いざらいシキナに伝えた。受け取ったノートについても、かいつまんでその内容を話した。へえ、読んだんだ、と意外そうな声でシキナはいった。

 読んだよ、と僕は答えた。シキナはくすくす笑って、わたしのは一文字も読んでくれなかったのにね、と僕をなじった。僕は、無言で返した。

 それで、どうだった? とシキナは尋ねる。それを読んで、葉太はなにか、心に思うものはあったのかな?

 なにもなかったよ、と僕は答える。当たり前だろう、そんなの。

 じゃあどうして、葉太はわたしに連絡をしたのかな? 馴染みのある、どこか挑むような声色でシキナは尋ねる。なにもなかったのなら、なにもする必要もないのでは?

 迷っているんだ。僕は正直にそう告げる。彼女に君を紹介するべきか、しないべきか。

 学園一の才女を、悪魔に売り渡すかどうか?

 君は僕よりもずっと頭が良かった。僕はその言葉を初めて口にした。回線越しに君が、ちいさく息を呑んだような気がする。僕は続ける。悔しいけど、それは事実だ。僕がわからないことも君ならわかる。僕はもうミスをしたくない。だから僕がどうするべきか、君に教えてほしいんだ。

 わたしだって完璧じゃない。長い沈黙のあと、シキナはそれまでの冗談めいた口調を一転させ、静かにつぶやく。特にいまは、自分の限界というやつを、喜ばしくも日々、感じ続けているわけだしね。

 そうなのか。僕は意外な気持ちで声を漏らした。

 そうだよ。喜ばしそうでもあり悔しそうでもある声で、シキナはいった。この世界に才能のある人は山程いるんだよ。そのことにわたしはほんとうにびっくりした。桜子ちゃんも、そのひとりだといいんだけど。

 でもね、わたしだっていまも、悩まないわけじゃない。シキナはどことなくまどろむような声でそうつぶやく。自分の心を押さえつけて、あなたといっしょにいることを選んだとしても、それはそれで良い選択だったのかもしれない。どちらが良かったのかはわからない。どちらを選んだとしても、苦いものは残っただろうし、甘い蜜だってあるんだよ。そこには賢い選択なんてないんだ。苦しみながら選んだという、結果だけが残る。

 春川桜子も苦しんでいるんだと僕はいう。

 そのとおり、とシキナはいう。だからきっと、その苦しみに寄り添うというのも、良い教師の条件だとわたしは思うよ。

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