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勉強なんてぜんぜん楽しいと思えないのだと、春川はいった。
重積分も有機化学合成も嫌いです。フーリエ変換も光学解析も、わたしには、意味があるようには思えないんです。
内容が理解できないわけではないから、テストで点を取ることは簡単なのだと彼女はいった。左に書いてある文字を、右側へ書き写すようなものだと彼女は説明する。それはすごく簡単なことだし、満点を取れば誰もが褒めてくれる。でも、うれしくはない。そこに意味があるようには、どうしても思えないから。
それはまだ学生だからじゃないか、と僕は反論する。もっと勉強して、優秀なミサイル技師や毒ガス技師になって兵器を開発すれば、形あるものが生み出せる。臨時政府に貢献できる。人々の役に立つことができる。そうすれば、学んだことに意義を見出し、納得できるんじゃないか?
彼女はちいさく首を振ってその考えを否定したあと、すこしだけ間をおいて、ささやくような声で僕に尋ねた。先生は、どうして勉強なんてしたんですか?
二年前、同じ質問をシキナにされたことを思い出して、僕は硬直する。
その質問になにも答えられなかったことを思い起こして、そしていまも、答えられない自分自身を見出す。
考えたこともなかったよ、そんなことは。苦笑を交えてそうつぶやくのは、二年前とまったく同じだ。
わたしには変な趣味があるんですよ、先生。
いたずらっぽい笑みを僕に向けて、春川はいった。サクラの老樹を見上げながら、たたみかけるように言葉を続けた。空想するんです。実際には存在しない人たちと、世界を想像して、頭のなかでみんなを動かしてみるんです。みんなは笑ったり、争ったり、ときには泣いたりして、想像のなかでちゃんと生きているんです。変でしょう? でも楽しいんです。本気になれるんです。彼らのことを考えるだけで、わたし自身が楽しかったり、悲しかったりするんです。ほんとうはいない人たちのことなのに。それでね、先生。わたしはそれを文章にするんです。その人たちが生きて、頑張っている様子を、文章にして残すんです。
春川はカバンのなかからノートを取り出した。ペラペラとめくるそのページには、ぎっしりと文字が敷き詰められている。
よくないってわかっているんですよ。春川は自嘲気味に笑ってつぶやいた。こんなことをして、なにか意味があるわけじゃない。ミサイルにも毒ガスにもならないし、現実を動かすわけでもない。サクラの花といっしょです。ぱっと咲いて、楽しいけれど、なにかをなすわけじゃない。そんなのはすぐに散って、あとから出てくる葉っぱのほうが、光合成をするんです。生産的なことをするんです。だからこれも、さっさと散らさなきゃならない。わたしもちゃんと光合成を始めなくちゃならない。わかっているんです、そんなことは。
ぱたん、と音を立ててノートを閉じると、彼女はそれを僕に押し付けた。
捨てていいです、と春川はいった。わたしじゃ捨てられないんです。そして立ちあがるとカバンを手に取って、足早に立ち去ってしまった。受け取ったノートを手に、僕は呆然としていた。なにもかもが二年前の、焼き直しだったから。
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