0日目 プロローグ

どれだけ手を伸ばしても届かないものはある。

だからこそ、

近くのものを大切にしようとしたんだ。

手に取ろうとしたんだ。

それはもう残ってないけど。




20xx年6月27日――――――――




ふと雨が降り出した。

梅雨の時期。とうとう梅雨前線が来たようだ。

昨日の予報では今日の夜からだったのだが、早まったようだ・・・傘を持ってくればよかった。

だが、雨は好きだ。

少し雨音に耳を澄ませばあっさり眠れる。

だが、今日は金曜日。帰ったらやりたいことがあったのだ。

流石に3日も徹夜はしないが、なにぶん時間が欲しい。

仕方がないが、傘を借りよう。


いつも通り、金曜の6限の授業の現代文を流し聞きながら、板書をする。

ふと、こんな言葉が耳に残った。

「私はどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち竦すくんでいました。」

きっと「こころ」の文章の音読だろう。されど、そのフレーズに何かを感じていた。


授業の終了の鐘がなる。

僕はそっと荷物を整えて、友達のテツのもとに向かった。

「なぁテツ、傘あまり持ってたりしない?」

「なんだぁ?忘れたのか?ケンちゃんにしては珍しいな。折り畳みでいいなら貸してしんぜよう。」


さわやかな笑顔を向けたテツのボケをスルーしてしまうのもどうかと思った。


「ははーありがたき幸せ。頂戴仕る。」

「よし、明日返せよ~じゃあ俺部活だから~。」

「明日は休みだぞ?」

「ついでに練習試合だから見に来いってことだよ。」


くそう、その誘い断りずらいじゃないか。


「はぁ~。狙ったな?いいよ。見に行くよ。」

「よっしゃ!」


快活な喜びをするテツ・・・そんなテツを僕は本心から友達と呼べない。

姉の姿が、声がよぎるのだ。

快活な姿に、今は亡き姉が。



昔、この学校に通っていた姉がいた。

と言っても別段いじめやらなんやらではないただの事故だ。

そう、仲良しだった友達とのスキンシップで起こってしまった、という点を除けばただの・・・


その事故は起こったときは『いじめによる自殺か?』『他殺か?』と騒がれたが、姉の携帯パスワードを知っていた母によるSNSの確認をしたところ全くそんな様子もなく、学校でもその様なことが無かったため、事故だと断定された。

姉はよくおっちょこちょいを起こすため、パスワードなどは手帳やメモ帳、PCや母に託していたのだ。それが功を奏したと言える。

事故の概要としては、姉が友達と話しながら階段で転ぶ。ただそれだけ。不注意だ。

されど二度と帰らぬ人間となった。

その体はどこか、すっと起き上がって「ごめん寝てた!」とでも言いそうだった。

でも・・・動くことはなく、ただの灰になった。

それ以降、友達の行動の影に姉がいる気がして、疎遠になっていった。

肩のひどい重さを感じるようにもなった。

まるで、姉が憑りついて、「私を忘れるな」とでも言っているのかとも思った。

当時は中学2年生、今は高校2年生だが、未だに姉の影が離れて消えず、部活にも入れないでいた。

テツは高校に入って初めてできた友達でバスケットボール部だ。

ムードメーカーで、明るく・・・まるで姉のような人だった。

だからこそ、僕も近づきたかった。でも、心がそれを拒んでいた。

クラスの人気者で誰にでも声を掛ける。その点を踏まえても、僕に何故か多く関わってくる。

それがなぜだか、心地よくもあり、心地悪くもあった。


「・・・ぃ。おい!ケンちゃん!」

「あっ、ごめん考え事してた。」

「大丈夫か?顔色悪いぞ?」


心配そうな顔をして僕を見る君の眼に反射して、姉が写って見えた。


「っっっ!何でもない!大丈夫、とりあえず今日は帰るね!」

「ぅおう、そうか。傘だ持ってけ。気を付けろよ?あと明日無理せずに来いよ。」


傘を投げ渡される。だが、それどころじゃなかった。


「分かった!必ず行くから!」


呼吸が荒くなり、頭にノイズがかかったようになる。

苦しくてたまらない。

無我夢中で教室を出て下駄箱まで走っていった。


「はぁはぁはぁ・・・ふぅ。」


やっと落ち着き、自分を再確認する。

頭痛は多少楽になった。

動ける・・・今のうちに、駅まで歩いていこうと思った。



雨は強く、されど、人に恵みを与えるかのように降り続ける。

僕にはテツから借りた折り畳み傘がある。

その傘がとても暖かく感じた。


歩いて約10分されど、時間は倍のようにも、半分のようにも感じた。

咲く紫陽花に心をふと奪われた。

青と赤紫。どちらもが並ぶ。

たしか酸性度で変わるはず、と風情も何もないようなことも考えながら、歩く。


錆びた鉄の柵の奥から駅のホームをみた。

紫陽花と、菜の花だと雰囲気が変わるんだなとしみじみ感じる。


ローカル線であり高校通学に必須なこの電車の車窓からは、春になると桜、菜の花が見事に見える。

だが、今の季節にはない。少しだけ寂しく感じた。


古びた駅、塗装の剥げ落ちた椅子に座る。

傘に付いた雨の雫を払いながら、少しだけ・・・テツについて考えた。

酷い反応をしてしまったかな。と思うところがある。

だが、それでも耐えられなかったのだ。


電車が駅にやってくる。

思考を断ち切るような風が僕に雨を叩きつけてくる。

冷たさに心地よさを感じた。


電車が幸い空いていたので、座った。

ボックス席なので、一人で座るのは少しだけ申し訳ないが。

傍らに傘を立てかけた。


車窓から覗く雨の雫が角度の急な斜めになりだしたころ、僕はそっと目を閉じた。

だが、そうすると姉の目が僕を覗いてる感覚がした。でも、嫌じゃないと思った。


もしかしたら、姉は僕を恨んでいないのかもしれない。

でも、僕は姉のことが好きにはなれない。

だけど・・・だけどね。嫌いでもないんだ。

まるで体の一部のようだったんだ。

それが消えた気がして、苦しかった。


ふっと笑みが出た。



終点、僕の降りる駅に着いたみたいだ。

終点に着く車内連絡で目が覚めた。

立ち上がって荷物と傘を持つ。

慣性が僕を襲う。ふらついたときに窓が僕の姿を鏡のように反射した。

そこには確かに・・・姉がいた。


「あっ!・・・」


思わず声を上げたが、そこまで注目を集めなかったみたいだ。転びそうになったと思われたのだろう。

もう一度窓を見ると、何もいなかった。



帰り道、傘を差してゆっくりと歩いた。

そこには紫陽花があったが、駅まで道のりほど美しく見えなかった。


『私はどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち竦すくんでいました。』


なぜいたのか、なんでいたのか、ぐるぐる回る思考の中に、ずっとこの言葉が残っていた。



夜、僕の体が水面と共に揺れた。

風呂の中、鏡と水面を見るのが怖くなっていた。


そっと救い上げたお湯の温度がひどく低く感じた。

無駄だと気付いても変わらない。

意味がないと分かっていても変わらない。

姉の面影に失うことを恐れているんだ。

テツも、姉も、クラスのみんなも嫌いじゃない、むしろ仲が良いと言って過言ではない。

だからこそ、避けてしまう。

失うくらいなら僕は・・・


僕は鳥だ・・・

片方の風切り羽を抜かれてしまった。

だから、

それを分かっているから


もしも叶うのならば、もう1度だけでもいいから姉に話をしたい。

そして聞きたい。


『僕の何が悪かったの?なんで僕に憑りついているの?』と。


こんな気持ちにこたえる人は何処にもいない。

いっそ、墓を暴けばいいのか?そうしたら、許してくれるのか?


僕には何も残ってない。


記憶もある、思い出もある、好きなものも嫌いなものも、付き合った人も知ってる。

でも、僕をどう思ってたか・・・それを僕は知らない。



誰か教えてはくれないか・・・


虚空への問いは、雨の音に溶けて消えていった。


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