第3夜・残留

「ユウちゃん、今日はなんか変よ。いつもみたいに騒がないし。まるで別人みたい」


「そ、そう?」


 一瞬、心臓がタップを踏んだ。額に脂汗がにじむのがわかる。


「あ、やっぱりユウちゃんね。何かごまかしたいときに右手でこめかみを掻いちゃうくせ、直したほうがいいよ」


「え?」


 あわてて右手を後ろに隠す。無意識のうちに癖が出てしまったようだ。


「ともかく、今日のユウちゃんは、いつもにも増して失敗ばかりよね」


「はあ」


 そりゃそうだ。


「今日はもう休んだら?」


 そう、この言葉を待ってたんだ。とりあえず躊躇ちゅうちょしてみせてから、


「……はい、すみませんけどそうさせてもらいます」


 でも、この言葉は、いつものユウちゃんとしてはまずかったようだ。センパイが妙な顔をする。


「失礼しますっ」


 センパイに一礼した勢いのままに振り向き、自分のショルダーバッグをひっつかんで、事務所から逃げるように階段を降りる。いや、本当に逃げてるんだっけ。


 近所の公園のベンチに腰かけ、ほっと、ひと息。背伸びをすると、すぐ後ろの大きな木を通り抜けてきた光が、ちょっとまぶしかった。



 そもそもの始まりは、いつもの電車で、いつもの席が取れなかったことだった。


 いつもより3歩遅れて入ってきた電車の4号車。いつものつり革は、タッチの差で先客に取られてしまった。しょうがないから、近くのつり革につかまる。こっちのつり革は、なぜだか知らないけど、いつも空いてるんだ。


 発車のベルが鳴る。ドアが閉まる。発車のショックに備えて身構える。


 がくん、と、いつもよりも大きく揺れて、電車は動き出した、次の瞬間。


 何かが、激しくぶつかってきた。


 どん、という衝撃しょうげきに飛ばされそうになるのを、つり革につかまって、必死にこらえる。


 なんとか体勢を立て直して、ふう、と一息つく。電車の騒々しいモーター音が遠ざかってゆく。


 遠ざかる?


 恐る恐る目を開けてみると。


 そこは、まだ駅のホームだった。


 正確には、ホームの前、線路の上の空間。そこに、右手をつり革に伸ばした間抜まぬけな姿勢で立っていた。


 あわてて下を見るけど何もない。けど、床を踏みしめている感触かんしょくはあった。


 右手の先にもつり革はない。けど、輪っかを握りしめている感触はあった。


 とりあえず、命に関わる問題じゃないみたいだ。けど、足元に何もないのはやっぱり、不安だった。


 プラットホームに逃れようと思った、けど、足が動かない。


 つり革につかまっているせい? 手を離そうとしたけど右手も動かない。


 助けを呼ぼうとしたけど、声も出なかった。


 まさに金縛り状態。首も動かない。けど、なぜか、周りは見渡せるようだ。


 なんの変哲もない、いつものプラットホーム。


 ベンチに腰掛けている人、階段を降りてくる人。


 次の電車を待つ人たちが、列を作り始めている。


 けど、こっちを見て騒ぎだすような人は、一人もいない。誰も、見えてないんだ。


 電車到着のアナウンスが流れる。次の電車が来たんだ。ということは。


 ぶつかる!


 慌てて逃げようとしたけど、もちろん、ぴくとも動けない。悲鳴を上げようとしたけど、もちろん、吐息ほどの声も出ない。


 警笛を鳴らして、電車がホームに滑り込んでくる。「地下鉄で飛び込み自殺」という新聞記事が、頭の中をかすめた。


 もうだめだと思った瞬間、電車の先頭車両が通り過ぎた。2両目も通り過ぎる。そして4号車、いつもの電車なら指定席のつり革の位置で、電車は止まった。


 ドアが開いて、乗客が電車に乗り込んでくる。銀縁眼鏡でグレーのスーツを着た男が、まっすぐにこっちに歩いてきたが、ちょっと妙な顔をして、すぐ隣の吊革につかまった。


 やがて発車のベルが鳴り、ドアが閉まる。電車が動き出した、次の瞬間。


 何かが、はげしくぶつかってきた。


 てっきり、電車が到着したときと同じで通過してゆくものだと思っていたから、これは完全に不意打ちだった。どん、という衝撃に飛ばされそうになるのを、つり革につかまって、必死にこらえる。


「うわっ!」


 思わず漏れた声に、何人かの乗客がこっちを見る。けど、すぐに興味なさそうに視線をそらした。


 電車のモーター音が、どんどん大きくなる。右手と両足から、振動が身体に伝わってくる。


 あれ?


 ということは。


 つり革を、右手から左手に持ち替えてみる。


 足の踏み場所を少し変えてみる。


 どちらもうまくいった。


 動ける!


 やっぱり、元に戻ったんだ!


 けど、何だか変だった。特に、視界しかいが狭いような気がする。


 目の前にもってきた右手に、何かが当たった。銀縁の眼鏡だった。



 それからどうやって帰り着いたのか覚えていない。ただ、帰り着いたのは銀縁の眼鏡の主の家だったんだけど。



 それ以来、いろいろな人の身体を渡り歩いてきた。いつもの電車の4号車、いつもの指定席のつり革にはいつも先客がいて、その隣のつり革にとりつくと、いつも意識だけ飛ばされて、次の電車で拾われる。他の電車ではこうはいかない。


 他人の身体にいる間は、その当人の「身体に染み付いた記憶」というやつに任せておけば、そうそうバレることはないし、他人の身体のままで生きていこうと思えばできるんだろうけど。


 やっぱり、借り物の身体という感触が抜けないし。


 「自分の人生」というものに、まだ、未練があるし。


 自分の身体がどうなったのか心配だし。


 こうして渡り歩くうちに、いつかは自分の身体に行き当たるだろう。それだけを信じて、他人の身体を渡り歩いてきたわけなんだけど……


 そろそろ、駅に向かった方がいいかな。公園を出て、いつもの駅のホームに降りると、ちょうど、いつもの電車が入ってくるところだった。


 4号車に入り、いつもの指定席の隣のつり革につかまる。


 だけど、ちょっと心配なのは。


 指定席の方のつり革には、誰もいない。今日に限って。


 どういうことなんだろう? 不安が心をよぎる。


 やがて発車のベルが鳴り、ドアが閉まる。


 電車が動き出した。


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