おまけの短編 -森の一匹狼-

 荒い呼吸を整えて、ゆっくりと夜空を見上げると、憎いほど美しい星空が広がっていた。

 服を見ると、返り血でべっとりと朱に染まってしまっている。いつからか、この生臭い香りを嗅ぐと、不思議と落ち着いてくるようになっていた。

 俺はざわめく森の中に沈みながら、手に着いた血を拭き取っていく。

 証拠は消しただろうか。そもそも、対象の死亡を確認していないような気もする。

 だが、そんなことはすぐに全てどうでも良くなった。万が一、捕まったところで失うものなど何もないのだから。

――またこんな成績を取って来たのか!

「黙れ!」

 叫びながら虚空に弾丸を放つ。

――お前は完璧でなくてはならない! 私の息子であるならば!

「黙れ! 黙れ! 黙れ!」

 弾が切れてもお構いなしに、俺はひたすら引き金を引き続けた。耳に染み込んだ怒声が聞こえなくなるまで。

 あの日、俺は解放されたはずだった。俺自身を囲う檻を全て壊して、腐りきった日常から抜け出したはずだった。

 だが、少しでも気を抜くと、いつもあの日が脳内で繰り返される。


◇◇◇


「ルカ、何点だった?」

 試験が返却されるなり、隣の席に座っていた赤毛の少女が尋ねてきた。俺が黙って答案を見せると、彼女はため息をついて首を横に振る。

「九十三か……。今回は行けると思ったんだけどなぁ……。」

「ソフィアは何点だったんだ?」

「八十六点。……っはぁー、今回の平均点七十三点だよ? 何食べたらそんな点数取れるのよ。」

「頭の出来が違うんだよ。」

「こんのー……。見てなさいよ! いつか必ず追い抜くからね!」

 横で唇を噛んでいるこの少女は、昔なじみの友人だ。いつも何かにつけて、競い合おうとするような少女だった。そして毎回俺が勝つと、いつも悔しそうに唇を噛んでいた。

 国立学術小学院は、中央都に最近設けられた教育機関である。

 将来有望な子供を育成するという小学院の中でも、ここ中央都の小学院は特に生徒の質が高いと言われている。というのも、中央都に住み、小学院に子供を通わせられるだけの家庭は上流階級が多く、教育に充てる金額が特に多いというのが理由だろう。

 だが上流階級出身と言えど、子供は子供である。教室では、返却された試験を見て生徒が大騒ぎしていた。

 俺はそれを横目に自分の答案を静かに折りたたむと、片手で握りつぶした。

「ちょ、ちょっと! 何やってんのよ!」

「どうせ捨てられるんだ。満点じゃないと。」

「あぁ、お父さん……。相変わらず厳しいんだね……。」

 上流階級出身の生徒が多い中、俺の家庭はせいぜい中の上くらいだろう。国の研究機関に勤める科学者の父が、小学院教員の友人を頼って俺をここに捻じ込んだのだ。

 俺は、その父親から終ぞ褒められたことは無かった。笑顔を向けられたことも無かったかもしれない。

 父親の口癖は「完璧な成績でなければ私の息子ではない」だった。ただ、満点を取ったところで褒められることも無かったのだが。

 俺は無邪気に騒ぐ同級生を眺めながら、今晩の事を考えた。

 成績はすぐに各家庭へ送られる。今回の成績も、きっと既に父親の耳に入っているだろう。

「大丈夫よ。なんてったって、これで学年一位じゃない。お父さんもきっと褒めてくれるわ。」

「……天地がひっくり返っても有り得ないね。」

 俺はため息を吐くと、くしゃくしゃになった答案を鞄に突っ込んだ。


 帰宅後、やはり待っていたのは父親の怒声だった。

 なぜ、こんな簡単な問題で間違えるんだ。基礎ができていない証拠だ。満点くらい平気で取れなければ私の息子ではない。

 聞き飽きた台詞を散々吐くと、彼は自室へと帰っていった。俺も部屋へ戻り、硬いベッドの上に身を投げた。そして大きく息を吐くと、ゆっくりと目を閉じた。

 このまま目覚めることなく、一息に暗闇へと溶け込めたならどれだけ良いだろう。

 だが、そうも言っていられない。俺は部屋の戸が開く音で目が覚めた。

「ルカ。聞いたわよ。また学年一位だったんですってね。」

 扉の前で母が嬉しそうに笑っていた。その顔を見て、俺のしかめっ面も思わず綻んだ。

「嬉しくて、お友達に自慢しちゃったわ。」

「やめてよ母さん。恥ずかしいよ。」

「良い事じゃないの。あ、そうそう。今晩はルカの好きな物にしましょうか。ふふふ、実は、もう材料買って来てあるのよね。」

 母はそう言って俺の頭を撫でると、鼻歌混じりに部屋から出て行った。

 母は俺を認めてくれた。満点を取れなくても、勉強をさぼっても、先生から叱られたとしても。いつも笑って受け止めてくれた。

 母は俺の欲しかった言葉を言ってくれた。その言葉は、いつも俺の凍り付いた心を融かしてくれた。

 母は俺にとって唯一の心の支えだった。俺が落ち込んでいる時も塞ぎ込んでいる時も、いつも優しく立ち直らせてくれた。


 だが、その母は俺が二十の頃に死んだ。当時流行っていた肺炎だった。

 その時、俺は既に研究員として飾り気のない研究施設に縛り付けられていた。小学院をはじめ、全ての成績で常に一位を取り続けた俺は、時代を変え得る天才として周囲の期待を一身に受けていた。

 だが、それは俺にとって苦痛でしかなかった。

 父親によって決められた道を歩んだだけの俺には、商店街で働く商人も、街の平和を守る軍人も、そして道端でうずくまる乞食までもが羨ましく思えた。自分の歩んでこなかった道のどれもが美しく見えていた。

だが、もう遅い。

 他の道を歩む方法が分からなかった。既に完成された道を歩んできた俺は、新たな道の切り開き方を知らなかったのだ。たとえ今から別の何かを始められたとしても、それが大成するより早く寿命が来るだろう。

 その頃の俺に友人と呼べる人間は居なくなっていた。かつて仲が良かったソフィアも、いつからか疎遠になってしまった。

「おい、ルカ。例の資料作っただろうな。午後の会議で使うやつだ。」

「はい。作りました。」

 俺は机の上の資料を上司に見せる。彼はそれをしばらく流し読むと、満足そうに頷いた。

「ほう……。うむ。完璧だ。さすがは天才と呼ばれるだけあるな。はっはっは。」

 完璧。天才。

 この言葉が俺の存在の全てだった。

 常に完璧であること。常に天才であること。そうでなければ、俺の存在は無意味になる。そのために失敗は許されない。


 だが、それは起きてしまった。俺が初めて計画した実験は、長い時間と金を吸い取った挙句に、その研究自体が無意味なものだと判明したのだ。

 そして、まるでこれまでの経歴を無かったことにするかの如く、俺の関わった研究はほとんど頓挫した。

 確かに俺が失敗した部分もある。だが、研究が頓挫した大半の理由は俺とは関係の無い物だった。だが、それでも周囲の反応は変わる。

 俺に対する期待は、そのまま失望へと変わった。俺は研究を失敗させる疫病神のように扱われ、自然と人から避けられるようになっていった。

 完璧な天才は死んだ。

「例の実験、また失敗したそうじゃないか。」

 帰宅すると、父が石のように冷たい顔でそう言った。当時、彼は研究所長の座まで上り詰めていた。

 研究員として碌な働きをしていない俺の給料は、同年代の研究員と比べても明らかに劣っていた。そのせいで、俺は居たくもない実家に縛られ続けている。

「……そうですね。」

「何度私の顔に泥を塗れば気が済むんだ? もうお前を私の息子と呼びたくは無いな。」

「……申し訳ありません。」

「ところで、お前と同年の天才研究員の話は聞いたか?」

「え?」

 いつものように聞き流すつもりだった俺は、『天才』という言葉に思わず反応してしまった。ここで聞き流していれば、俺の人生も変わっていたのだろうか。

「魔法学の分野で、次々と新たな研究を発表しているらしい。彼女のお陰で、我が国の魔法学分野は大きな進歩を見せるだろうという話だ。」

「か、彼女?」

「あぁ。赤毛の美人でな。確か……名前はソフィア、と言ったかな?」

 その名を聞いてから、彼の話はもう耳に入ってこなかった。

 あいつが天才? 成績も常に俺より下だったソフィアが?


 それから、俺の中で何かが切れた。ほとんど家から出ることは無くなった。家に置いてあった学術雑誌をたまに眺め、それ以外は自室で寝て過ごした。

「おい! 出て来い!」

 鍵をかけた扉の外から怒声が聞こえる。

「お前はもう私の息子ではない! ここから出て行け!」

 慣れたはずの声に、何故か俺の鼓動は加速していく。

「お前は完璧でなくてはならなかったんだ! 研究所長の、私の息子として! 完璧な天才でなくてはならなかったんだ!」

 俺の目から何かが零れた。悔しかったのか? 悲しかったのか? 寂しかったのか?

 扉を激しく叩く音が聞こえる。俺は震える足取りで机まで行くと、引き出しを開けた。

 取り出したのは魔法式拳銃だ。雑誌の研究論文を参考にしながら、自殺用として作っていたものだった。自殺する勇気なんてものは、これっぽちも無かったのだが。

 弾を籠めると、拳銃を扉に向ける。そして、何度も引き金を引いた。俺を否定し続ける怒声が聞こえなくなるまで。

 扉を開けると、血まみれの男が転がっていた。俺は震える足でそれを避けると、走って家から飛び出した。

 俺の足は自然と研究棟へと向かった。荒い呼吸を整えて階段を踏みしめて上っていく。

 そして、なんとか部屋にたどり着くとゆっくりと扉を開けた。

「あ、はい。どちらさ……、ルカ?」

「……久しぶりだな、ソフィア。」

「久しぶりだね! あれ、なんか暗くなった?」

「……お前は何も変わらないな。」

 数年ぶりに見た彼女は、すっかり大人びていた。腰まで伸ばしていた茜色の髪の毛は、今では肩のあたりで切ってしまっている。

 だが俺を見て微笑む彼女は、かつてのソフィアそのままだった。

「まぁ、せっかく来たことだし、ゆっくりしていきなよ。もうすぐお茶菓子も届くからさ。」

「……届く?」

 すると、廊下の向こうから大きな声が聞こえてきた。

「おーい、ソフィア! 注文通り買って来てやったぞ!」

 振り返ると、ひときわ目立つ大男が小さな箱を抱えて走ってきていた。

ソフィアはその姿を見ると、嬉しそうに手を上げて彼に応える。

「……あ、あの人は?」

 俺は震える声で尋ねた。

「ん? あぁ。アクレスよ。私の旦那。」

 それを聞いて、俺は部屋を飛び出した。ここに俺の居場所は無い。

 俺は彼女に何を求めていたんだ? 受け入れてくれるとでも思っていたのか? もう何年も会っていないのに?

 もう俺を認めてくれる人間は居ないのだ。唯一の存在は既にこの世に居ないのだ。この世に残ったのは、俺を認めない人間だけだ。


◇◇◇


 嗅覚が異質な匂いを捉えた。人間の臭いだ。

 俺は拳銃に弾を籠めると静かに立ち上がった。気配は薄い。同業だろうか。

 だが、そんなことは関係ない。誰であっても殺すのみだ。この世に俺を認めてくれる人間は居ないのだから。

 目を閉じて気配を探る。暗闇が早まる鼓動を沈めてくれる。

 殺しは良い。この瞬間だけ俺は全てを忘れられる。この瞬間だけは自由に生きていられる。


 見つけた。

 俺は銃口を向けると、間髪入れずに引き金を引いた。だが、放たれた弾丸は何も当たらずに暗い森を貫いていった。

「おいおい! 話も聞かずに引き金引くんじゃねぇよ!」

 男の声が森にこだました。俺は声のした方向に銃を向けると、再び引き金を引いた。

「活きが良いのは結構だが、ちと教育が必要だなァ。」

 すると、木の陰から黒い影が飛び出してきた。すぐに引き金を引くが、全て避けられてしまう。

 あっという間に手に持っていた拳銃が弾かれたかと思うと、喉元に冷たいものが突きつけられた。

「話、聞く気になったかよ。」

「……殺せ。」

「分からねぇヤツだな!」

 男はそう言って刃物をしまうと、代わりに封筒を投げてよこした。

「最近巷で噂の拳銃遣いはお前だろ? ウチの大将から招待状だ。」

「招待状?」

「なんでも、手練れの殺し屋を集めたいらしい。」

 男はそう言うと、拳銃を拾って俺の脇に置いた。そして、葉巻を取り出して目の前で吸い始める。

「そんで、お前の腕を認めて、俺を寄越したってことよ。」

「俺を……認めた……?」

「あぁ。粗削りだが、良い腕してるぜ。鍛えりゃそれなりに強くなれる。ま、俺以下だろうがな。」

 男はそう言うと、笑いながら立ち去って行った。俺は拳銃を拾い上げ、男の残した封筒を見つめる。

 どこの誰かは分からない。だが、俺を認めてくれる存在が、まだこの世にいるのだ。

 俺は笑いながら封筒を開けると、必死にその文面に目を走らせた。

 そして、その夜。俺はルカと言う名を捨て、一匹の『狼』として生きることを決めた。

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