10

 さざめく波音の中、彰は青い顔で船から降りた。その後ろから、更に青白い顔のリリアがふらついた足取りで降りてくる。

「……少し、休憩しようか。」

「……賛成。」

 港近くにあったベンチに二人は座ると、大きく深呼吸して目の前の海を眺めた。つい先ほどまで居たはずのマテラス本島が海峡のすぐ向こうに見える。

「とにかく……、月島上陸だな……。」

「付いてこなきゃよかった……。」

 中央都を発ってから数週間。遂に彰は月島の地を踏むことができた。だが、その嬉しさよりも船酔いの辛さの方が勝ってしまっている。

 本島と月島の間にある海峡は狭いのだが、流れる潮流は山を流れる川のように早い。その荒い波のせいで、この短い航海は二人にとって拷問のように辛いものとなった。

 しばらく潮風に当たっていると、突然リリアが顔を伏せた。

「おいおい、吐くなら他のところで……」

「違う! アナタも顔隠して!」

 そう小声で言うリリアの顔は険しく、その両肩は微かに震えていた。

「急にどうしたんだ……?」

「あそこに奴がいるの……!」

 彼女が小さく指さした先を見ると、遠くの人ごみの中に小さな老人が歩いていた。どこか和風な雰囲気の漂う服装に身を包んだ彼は口元に白いひげを蓄え、腰にはスラリとした日本刀のようなものを提げている。

 リリアの言う『奴』と言うのは彼の事だろうか。しかし、彰には何の変哲もない老人にしか見えない。

「あの爺さんの事?」

「そう言ってるでしょ! アナタも早く……」

「蜘蛛の娘。久しいな。……それに、お前はアキラとか言う子供だな?」

 二人が顔を上げると、遠くに見えたはずの老人が目の前に立っていた。老人のものとは思えないような彼の鋭い眼光を前に、二人の体は蛇に睨まれた蛙のように動かない。

 その老人はリリアと彰の青い顔を交互に眺めると、少し頬を緩めた。

「船酔いか。まぁ、無理もない。」

 柔らかい口調で言うが、流れる緊張感は狼との戦闘時に感じたそれに似ていた。下手をすれば命を失いかねないと、彰は本能で理解していた。

 この男はリリアを「蜘蛛の娘」と呼んだ。そして、彰の名前も知っている。そのような人物は、この世界にはある組織の人間以外にあり得ない。

「蛇……。」

 リリアが呟いた。この男は間違いなく九頭龍の人間だ。

「なんでここに……、まさか、アタシ達を追って……?」

「子は世の宝だ。いくら九頭龍と言えど、年端もいかない子供を手に掛けるほど儂も落ちぶれちゃおらんよ。」

 その老人――蛇は二人の肩を叩くと「そう硬くなるな」と笑った。だが、二人の体は強張ったまま動かない。

「ここへ来たのは別の用だ。お前たちに手は出さん。……まぁ、他の奴らは知らんがな。」

「他にもいるの!?」

 リリアは問いかけるが、彼は答えることなく手をひらひらと振りながら立ち去って行った。後を追おうかとも思ったが、その姿はすぐに人ごみの中へと消えてしまった。

 ここは月島の玄関口。もしも彼の言うことが本当ならば、この場所に二人を狙う刺客が居てもおかしくはない。

「……移動するか。」

「……そうだね。」

 二人はそう呟くと立ち上がった。


 ここ月島が正式にマテラス王国の領土となったのは、今から約三十年前の事である。そのためか、この月島内の街の様子は本島の街並みとは異なっていた。

 ほとんどの道には石畳などの舗装がされておらず、本島ではあれだけ走っていた馬車も、この島に来てからはめっきり見なくなってしまった。建物も木造のものが多く、そのほとんどが一階建てである。初めて訪れた場所にも関わらず、何故か彰はその街並みに親近感を覚えた。

「大きな建物って言ったら、多分あそこしかないよな。」

 平屋だらけの街の中に、飛びぬけて大きな建物が見える。アクレスの言っていた「一番大きな建物」というのは、おそらくこれの事だろう。この建物は月島がマテラス領土となってから建てられた、国内最大の軍事施設である。

 二人がその建物の厳重に警備された門の前に着くと、ちょうど中から一人の男が出てきた。その男の体格はアクレスと同じくらいに大きく、周りを歩く軍人の中でも白髪頭が飛びぬけて見えている。

 あまりに目立っているので彰が見ていると、その男と目が合った。

「……おや。」

 男はそう呟くと、二人の方にずんずんと歩み寄ってくる。

「君が、アキラ君かね?」

「えっと……、どこかで会いましたっけ?」

「いやいや。我らが英雄殿から話を聞いてな。」

 彼は口ひげを弄りながら笑うと、彰の肩を力強く叩いた。

「自己紹介が遅れたな。私はユドラーと言う者だ。」

「あ、彰です……。」

「はっはっは! そんなことは分かっておるわ! アクレスに会いに来たんだろう? 彼なら今会議中だ。そうだな……、日暮れ時には終わっているだろうな。それまで観光でもして行くと良い。」

 ユドラーはそう言うと、もう一度彰の肩を叩いて去っていった。

「日暮れ時って……。」

 リリアは呟くと、街にある時計を見た。その針は十六時を差している。

「まだちょっと時間あるなぁ。」

「それなら、あの人探したら? あの……、あるふ……?」

「あぁ、アルフレッドか。」

 月島へ彰を呼んだのは、アルフレッドの残した手紙である。しかし月島へ来た所で、アルフレッドが待っているわけでもなければ、それらしい人も見当たらない。

 二人が仕方なく街へ歩き出そうとした時、彰は思わず立ち止まった。

 彰が見つけた物は、街の中でも特に狭い路地の奥に置かれた、見逃してしまいそうなほど小さな看板だ。街を行く人は目にも留めないような看板で、見たとしても首を傾げて通り過ぎるだけだろう。ところが、その看板に書かれていた文字を見た彰は、思わず頬を緩めた。

「リリア。たぶんあの店だ。」

「え? もう見つかったの?」

「あの看板だよ。きっとあれが目印なんだ。」

 看板に書かれていたのは「Bar」という短い単語。何の変哲もない三文字のアルファベットだが、この世界では異世界転移者にのみ通じる暗号のような機能を果たしているのだ。この看板はアルフレッドとは関係無いという可能性もあるが、少なくとも彰以外の異世界転移者がいることは確かである。

 異世界へ来て一か月半ほど経っている。その間、何の手掛かりも得られずに不安と焦りを感じていた彰だったが、遂に元の世界へ一歩近づけるのだ。その喜びと興奮が、彰の疲れ切った足を軽やかに動かした。

「あのさ……。」

 嬉々として路地裏へ入っていく彰の背中に、リリアが声をかける。

「どうした?」

「……元の世界に帰れるってなったら、すぐにでも帰るの?」

「あぁ、もちろんそのつもり。俺の弟も待ってるしな。」

「……そっか。」

 リリアは小さく答えると、彰の後を追って路地裏へと入っていった。


 ボロボロになった木製の扉を開けると、ふわりとアルコールの臭いが漂ってきた。橙色の照明に照らされた店内には、バーカウンターと二組の小さな机と椅子が置いてあるが、客の姿は無い。カウンター奥の酒瓶が並んだ棚の前では、店員らしき男女が不思議そうな顔で彰とリリアを見ていた。

「なんだい? ここは子供の来るところじゃないよ。」

 男性の店員が優しい口調で言う。

 彼がアルフレッドなのだろうか。彰はその男に尋ねた。

「突然すいません。あの、聞きたいことがあるんですけど、アルフレッドさんってここに居ますか?」

 すると、それを聞いた女性の店員がカウンターから身を乗り出して、彰とリリアを交互に眺めた。狭い店内で二人は思わず後ろにのけぞる。

「アンタ、アキラ君?」

「そ、そうですけど……。」

「ははぁー……。あの爺さんの言う通りだ。」

 そう言って後ろの棚からコップを二つ取り出してカウンターに置くと、お茶を注ぎ入れた。

「アタシはエリ。アンタと同じ転移者だよ。で、こっちでニコニコしてるのは旦那のケイロン。」

「あの、アルフレッドは……?」

「あぁ。アルフレッドの爺さんなら、とっくに転移者狩りに捕まったよ。」

 エリは淡々と言う。

「つい一年前に、『そろそろ捕まってくる』って言ったっきり戻ってこないの。たぶん今頃転移者狩りと暮らしてるんじゃないかしら?」

「何だそりゃ……。」

「そういう人なのよ。なんでも知ったような顔で飄々としててさ。出ていく直前だって、『アキラという少年とリリアという少女が来る』って言ってたわ。」

 それを聞いて、彰とリリアは顔を見合わせた。

「それ以外に、何か言ってましたか?」

 彰が尋ねると、エリはポケットから鍵を取り出した。

「『二人が来たら地下室を見せても良い』ってさ。」

「地下室?」

「ここの地下に彼の倉庫があるの。どうする? 見る?」

 アルフレッドが何者なのかも、信用していいのかも分からない。もしも彼が何かを企んでいた場合、地下室へ行くことは彼の策中へ自ら飛び込むということになる。だが、今はそれ以外に手掛かりがない。

 彰はお茶を飲み干すと、力強く頷いた。

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