9
――完璧でなくてはならない! 私の息子ならば、失敗は許さんぞ! 絶対にだ!
「ッはぁ! はぁ、はぁ……。」
獣の鳴き声がこだます森の中で、一人の男が飛び起きた。その周りには「止血」というラベルの貼られた薬瓶が転がっており、その中にはわずかに錠剤が残っている。
男は青白い顔で腕のついていない右肩を見た。その痛々しい傷からは未だに血が滴っている。
「……チッ」
小さく舌打ちすると、彼は血にまみれた左手で懐から黒い小さな機械を取り出した。そして、震える指で横についているボタンを押す。
『……おや? 誰かと思えば「狼」じゃないか。君から連絡とは珍しいな。』
若干ノイズの混じった音声が黒い機械から発せられた。この声は「戦争屋」だ。
狼と呼ばれた男は、一つ呼吸を置くとその箱に向かって言った。
「ガキを……見つけた……。」
『ほう。アキラ君か。』
「それに……蜘蛛の娘も見つけた……。他の奴らに……伝えてくれ……。」
すると、黒い箱から大きな笑い声が聞こえてきた。
『おいおい狼君。そんな悲しい事をいちいち私に報告しないでくれたまえ。』
「何だと……?」
『私が君たちに依頼したのは「アキラ君を連れてくること」だ。君の報告するべきは「発見した」ではなく、「今から私の元へ連れて行く」という事じゃないのか? 先ほどの君の報告は、私からしてみれば「見つけたが逃がした」という失敗の報告にすぎん。私に無駄な時間を使わせないでくれたまえ。』
その言葉を最後に、その音声はプツリと途絶えた。男は鬼のような形相で機械を睨みつけると、それを森の中へ投げ込む。
「俺が失敗だと……?」
男は震える声でそう言うと、地面を殴りつける。
「そんなはずないだろうが!」
彼は血走った目で狂ったように髪をむしると、左手に血が滲むのもお構いなしに地面を殴り続けた。
「俺は失敗しないんだ……! 俺がこれまで失敗したことがあったか!? 俺が失敗するはずない!」
いつしか、彼の周りには弱った獲物を見つけた数匹の野獣が唸り声をあげていた。
男はそれを見ると、懐から銃を抜いた。
「どいつもこいつもォ……!」
その声と同時に男は立ち上がる。血の臭いが漂う森に彼の黒い拳銃が淡く光った。
◇◇◇
「リリア、これは?」
「それは……そっちの棚の上。」
ここは孤児院の倉庫。普段あまり使われていないせいか部屋は空気が籠っており、唯一ある窓を開けると一気に埃が舞い上がった。建物自体が古いこともあり、少しカビの臭いもする。
子供の面倒と家事で手一杯のレイナの負担を少しでも和らげようと、彰とリリアは孤児院の清掃を買って出ていた。
腹の傷だが、もう隙に動き回れるくらいはに治っていた。ただ、今でも多少の痛みは残っているのだが。
彰は棚の上に大きな箱を載せると、大きく息を吐いた。
「なかなかの肉体労働だな。これ、お前ひとりでやってたんだって?」
「慣れてくれば辛くないよ。そんなことよりも、少しでもレイナおばさんの助けになりたいし。」
リリアは今から二年前にこの孤児院から巣立っていった。しかし、年に数回はここへ戻ってレイナの手伝いをしているという。
あの森で出会ったのも、リリアは孤児院へと向かう道と彰たちの旅路が偶然重なったのだ。
「……それなら、なおさら盗みは止めた方が良いじゃないか? 普通にバイトして……働いて稼いだ方がレイナさんも喜ぶだろ。」
彼女は中央都をはじめとした様々な都市で盗みして、その盗み取った金を「働いて稼いだお金」としてレイナに渡している。彰の月給もその一部に過ぎないのである。
すると、リリアは少し考えてから答えた。
「……アタシも初めは普通に働こうとしたよ。でも、どこの馬の骨とも分からない子供を雇ってくれる場所なんて無かったの。」
「……そうなんだ。」
「それで、盗みとかは昔からやってたから気付いたらそうしてた。」
そう言うと、リリアはポケットからグローブを取り出して手にはめる。中央都で襲われた時にしていたものだ。手の甲の部分にはボビンのようなものが五つ付いており、そこから指先に糸が張られている。
その手を壁に向けると、糸が壁に立てかけられていた箒に巻き付いた。リリアが手を引くと、箒はまっすぐ彼女の手に飛んでくる。
「こんな風にね。アナタの財布もこれで盗ったの。」
「凄いけど、悪用したらダメだろ。」
「悪用も何も、元々は暗殺用の技だから。」
「暗殺?」
彰が尋ねると、リリアは急に右手を引いた。同時に彰の首に細い糸が食い込む。
「ちょ……! なんだこれ!」
「アタシのお父さんね、九頭龍っていう組織に居たんだ。『糸使いの蜘蛛』と言えば、知らない人はいなかったくらい凄腕の暗殺者だった。」
「なッ……。」
九頭龍と言えば、中央都を火の海にした暗殺集団だ。転移者狩りをするという話もシルヴァから聞いている。まさに彰が最も警戒しなければならない組織である。
リリアはその組織に属していたというのだ。ということは、彼女の目的は……。
彰が思わず息を呑むと、リリアは右手を下ろした。首に食い込んでいた糸がするりと解ける。
「でも、お父さんは九頭龍の『規則』を破ったせいで、逆に暗殺者から追われる身になったの。アタシも含めてね。それで、結局殺されちゃった。」
それから、リリアは九頭龍についてポツリポツリと話し始めた。
それによると、九頭龍は多くの傘下を抱えており、その組織自体は少数精鋭で構成されている。中央都で彰を襲った男も構成員の一人で、彼は「鴉」と呼ばれる暗殺者であった。
「アタシも何故か死んだことにされてたんだけど、もうダメだね。」
父親を殺した男を目の前にして、リリアは思わず飛び出してしまったのだそうだ。その時は中央都で彰と同様にリリアも見逃されたらしいが、次はおそらく無いだろう。
「森で襲ってきた、あの男も『狼』っていう九頭龍の暗殺者だよ。」
「げッ! アイツもか!」
「最近になって、また九頭龍の噂を聞くようになったし、アナタもだけど、アタシもそろそろ死ぬかもなぁ。」
「……怖いこと言うなよ。」
彰がそう言うと、倉庫の扉が勢いよく開いた。二人は勢いよく振り返る。だが、そこで肩で息をしながら立っていたのはユノだった。
「うお、ユノちゃんか。そんなに慌ててどうしたんだ?」
「姉ちゃんたち、早く逃げて……!」
「逃げてって、何から……」
リリアが尋ねようとした直後、廊下の先から何かが壊れたような大きな音がした。それを聞いたユノが焦った様子で彰とリリアを引っ張る。
「変な男の人が『アキラとリリアを出せ。殺してやる』って騒いでるの! 右腕は無いし、なんか変なもの持ってて!」
その話で、彰とリリアは顔を見合わせた。間違いなく「狼」だ。
システィアに腕を落とされてもなお追ってきたというのだ。それも、アクレスではなく彰の方を。
「今はレイナおばさんが対応してるけど、その内ここにも来るかもしれないし……」
ユノがそう言いかけた時、孤児院に発砲音が響き渡った。
それと同時に彰とリリアは倉庫から飛び出していた。リリアは途中の部屋に置いてあった剣を糸で取り、彰に渡す。
銃声が聞こえたのは玄関近くにある、かつて信者たちの祈りの場として使われていた部屋だ。倉庫からは遠いが、走ればすぐに着く。
しかし、走っていた彰とリリアをユノが引き留めた。
「行っちゃダメ! 殺されちゃうよ!」
「でもレイナおばさんが……」
「レイナおばさんも二人を逃がしてって言ってたの! 殺されちゃうから!」
そう訴えるユノの目には、じんわりと涙が浮かんでいる。その姿を見て、彰はユノとほとんど年齢の変わらない弟を思い出した。
ここで逃げてしまえば孤児院にいるレイナも子供たちも、狼という男に殺されるに違いない。ただ、逃げてしまえば、彰の命は助かるかもしれない。無事に元の世界から帰るためには、そうするべきだ。
だが、果たしてそれが最善なのだろうか。弟の直哉よりも小さな子供たちを見殺しにすることが、怪我が治るまで世話をしてくれたレイナを見殺しにすることが、最善の手だと言えるのか。当然、そんなはずは無い。
彰はリリアから受け取った剣を握り締める。
この剣は自分の身を守るためにアクレスが買ってくれた剣だ。しかし、守らなければいけないのは自分の身だけではないはずだ。
彰は涙目で訴えるユノに視線を合わせると、優しく笑いかけた。
「ユノ、安心しろ。俺たちは絶対に死なない。」
「でも……」
「言っただろ? 兄ちゃんは本気になったら強いんだってな。ユノちゃんはそこの部屋に隠れてろ。」
それを聞いたユノは黙って頷くと、彰の指さした部屋に駆け込んだ。彼女も相当恐ろしかったのだ。それを押し殺して、二人を逃がそうとしていたのだ。
彰の剣を握り締める手が強くなる。
「ずいぶん見栄張ったね。」
「うるせーよ。行くぞ。」
二人はそう言うと駆けだした。
先ほど銃声が聞こえてから、男の声が彰たちにも聞こえるほど大きくなってきていた。しかし、その男を応対しているはずのレイナの声が聞こえない。先ほどの銃声の意味を考えると、二人の足は余計に速くなった。
二人が玄関近くの扉の前に着くと、そこには四人の子供たちが固まって震えていた。
「レイナおばさんは!?」
リリアが尋ねると、唯一泣いていなかったプルトが目の前の扉を指さす。その扉の向こうからは、怒りを含んだ男の声に紛れて、レイナの小さな声が聞こえてきていた。
「プルト、お前はみんなを連れて隠れてろ。兄ちゃんたちが行くまで出てくるんじゃないぞ。」
彰が言うとプルトは震えながらも頷いた。
「開けるぞ。」
彰は剣を抜く。二人は目を合わせて頷くと扉を開いた。
部屋に入るとすぐ、レイナが床に倒れているのが目に入った。部屋に置いてあった少ない家具は散乱しており、そのほとんどが原型を残さないくらいに壊されている。そして、その部屋の中央で一人の男がレイナに向かって銃口を向けていた。
九頭龍の一人、狼だ。
彼は森で出会った時よりも殺気立っており、システィアに切り落とされた右肩からは痛々しい傷が顔を覗かせている。そのおどろおどろしい姿に、二人は思わず一瞬固まった。
「……やっと来たか。」
そう言うと、彼は銃口をゆっくりと彰の方へ向けた。間もなくして、黒い拳銃に彫りこまれた記号が淡く輝き始める。その時、彰の脳内で強烈な痛みがフラッシュバックした。顔の血液が急速に引いていく。
銃を前に固まっている彰をリリアが蹴り飛ばした。直後、彰の居た場所を弾丸が貫いていく。
「止まると撃たれる! 動き続けて!」
「わ、分かった!」
彰にとって実際の戦闘はこれが初めてだ。これまではアクレスとシスティアが守ってくれていたが、今回はその二人はいない。その上、この部屋に遮蔽物となるようなものは無く、あの弾丸を全て回避するには男の狙いを完全に読み、その弾道を予測しなくてはいけないことになる。
果たして、彰にそんな芸当ができるだろうか。
だが、考えている時間は無い。こうしている間にも、狼はこちらに銃口を向けて次弾を放とうとしていた。
やれるかどうかではなく、やらなければならない。やらなければ、この場に居る全員が殺されてしまう。彰はもちろん、孤児院に住む子供たちもだ。
「こっち向け!」
リリアは何度も攻撃を仕掛けるが、その目に見えないほど細い糸は狼を捕らえることはできない。それどころか、彼はリリアの方を見ることすらなく、その銃口は彰を捕捉し続けていた。
彰が落ちていた小さな椅子を投げつけると、狼はそれを躱して引き金を引いた。発砲音と共に彰の頬を弾丸が掠め飛んでいく。
殺しのプロであるとはいえ、ろくな治療もされていない右腕は、彼にとって大きなハンデとなっているようだ。あの暗い夜の森で彰に命中させた銃の腕は相当鈍っている。
これならば避けられるかもしれない。
彰はそう考えると、一気に狼との距離を詰めた。
「らァッ!」
叫ぶと、剣で薙ぎ払う。黒鉄の銃身と白銀の刃が激しく火花を散らした。
――いける!
彰は確信した。片手と両手では、当然両手で剣を押し込む彰の方に分がある。このまま押し込んでしまえれば、狼の体に剣が届く。
だが、その刃が届くことは無かった。
狼は彰の治りきっていない腹の傷を正確に蹴り上げたのだ。眩暈がするほどの激痛が彰の全身を駆け巡る。狼は力の抜けた彰の剣を弾くと、銃口を崩れる彰に向けた。
その引き金に指がかかろうとしたところで、リリアが間一髪、横からその手を蹴り上げた。
「邪魔をするなァ!」
狼は叫ぶと、襲い来る糸を躱してリリアを蹴り飛ばした。
その間に彰は立ち上がるが、狼はそこへ拳銃を向けて引き金を引いた。その弾丸は、彰の右腕の肉を浅く削ぎながら壁に小さな風穴を開けた。
目の前の男は、顔色も青く片腕を無くしている。だが、それでも二人掛かりでも掠り傷一つ付けることすらできていない。それほどまでに力の差があるのだ。このまま続けていては、いずれ二人とも殺されるだろう。
隙を突ければ、逆転できる可能性もあるだろう。しかし、目の前で銃を構えている男には一分の隙も無かった。さらに言えば、彰とリリアではその隙を作れるかすら怪しい。
彰は歯を食いしばりながら剣を構える。リリアも奥で立ち上がっているのが見えた。
確かに望みは薄いかもしれない。だが、このまま抵抗もせずに殺されるわけにはいかない。たとえ逆転の可能性が砂粒ほど小さくても、それに縋りつかなくてはいけない。
「あああぁぁぁ!」
彰は叫んで自らを鼓舞すると走り出した。狼はまっすぐ走って来る彰に銃を向ける。
その時、狼の足をボロボロの手が掴んだ。狼が反射的に向けた銃の先で、彼の足に縋りついていたのは倒れていたレイナだった。それを見た狼の体が一瞬硬直する。
リリアはその隙を見逃さなかった。
巧みな手捌きで狼の左腕に糸を巻き付けると、一気に腕を引く。彼の左腕が宙を舞った。
「アキラ!」
リリアが叫ぶと同時、彰の剣が狼の体に届いた。柔らかい肉の感触が彰の手に伝わる。
「らああぁぁッ!」
躊躇しそうになる心を打ち消し、彰は剣を振りぬいた。目の前で鮮血が噴水のように飛び散る。その温い血は彰の全身を朱に染めていった。
狼はフラフラとした足取りで後ずさると、虚ろな目でレイナを見つめる。そして、その場に崩れる様にして倒れこんだ。
◇◇◇
「本当にもう出発するの?」
眠そうな目を擦りながら、レイナは心配そうな顔で彰とリリアに尋ねた。彼女の負った傷は浅いもので、二人が飛び込んだ時には狼に気絶させられていたらしい。外で聞こえた銃声は、脅しのために使われたものだった。
リリアは朝日の下で大きく伸びをすると、荷物を担ぎ上げた。
「あいつらの狙いはアタシ達だから。長居しない方が良いの。それに、この頼りないのを一人で月島に行かせるわけにもいかないでしょ?」
「でも、アキラ君は怪我が治りきってないじゃないの。もっと休んでから行けば良いのに。」
「……まぁ、これくらいなら平気ですよ。」
そう言われた彰は苦笑いして、包帯を巻いた右腕を見た。銃弾が抉っていった傷も、今では血も止まって痛みだけが残っている。
狼による襲撃の後、最も傷の少なかったリリアが麓の街から衛兵を呼んできた。狼の遺体は回収され、血痕や壊れた家具も衛兵たちによって数時間で綺麗になってしまった。
だが、あれから一日経った今になっても、肉を斬った柔らかい感触が両手に残っている。
彰が両手を見つめていると、その頭をリリアが軽く叩く。
「それじゃ、もう行くから。みんなによろしくね。」
「あの子達にも挨拶すればいいじゃないの。」
「そうすると、長くなっちゃうでしょ。また来るから元気でね。」
リリアは軽く手を振りながらそう言うと、荷物を背負いなおした。
「レイナさん。本当にお世話になりました。」
「あら、良いのよ。またいらっしゃい。」
レイナは少し悲しげに答えた。彰はもう一度礼を言うと、荷物を背負い上げる。
ここから離れたくない気持ちもあるが、そう言うわけにもいかない。まだ月島へ向かう旅の途中なのだ。
彰とリリアはレイナに手を振ると、積もった落ち葉を踏みながら森の中へと歩き始めた。
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