3

 それから一か月。彰はアクレスの家で暮らした。

 その間、何度もソフィアのいる研究棟へと足を運んだが、元の世界へ帰る手掛かりは見つからなかった。代わりに、この世界について少し詳しくなってきた。

 この国は海に浮かぶ小さな島国だ。周囲を囲む海という自然の壁が、長年この島を外からの侵略から守ってきていた。

 しかし、航海技術の発展と共に、海は壁としての機能を失った。そして今から五年前、西側にある大陸の国、「リンバス帝国」が侵略戦争を仕掛けてきたのだ。

 この戦争は、端からマテラス王国に勝ち目のないものだった。資源の乏しい島国にとって、リンバス帝国という大国は正に怪物のような国であっただろう。その絶望的な状況のせいで、自ら死を選ぶような人々も少なくなかったとか。

 予想通り、マテラスはすぐに劣勢となった。だが、その状況からマテラスは勝利してしまう。

 そのような奇跡の逆転劇が起こったのは、二人の男の存在によるところが大きい。その一人はアルフレッドという名の転移者で、湯水のように沸いてくる知恵と、豊富に蓄えられた知識によって、これまでにない兵器を次々と生み出していった。

 そして、もう一人は赤い炎と共に戦場を駆け抜け、圧倒的な物量差を悉く看破してきた男だ。たった一人で戦況をひっくり返した彼は、後に人々から英雄と呼ばれ、その武勇伝は今でも語り継がれている。



「だらァ!」

 彰は叫びながら木刀を振るった。しかし、その木刀は何かに当たることも無く空を切る。

「力任せはダメですよ。相手の呼吸、視線、予備動作から、動きの『流れ』を見抜くんです。そうすれば、今の私の動きは読めたはずですよ。」

 そう言いながら彰の攻撃を避け続けているのは、システィアという女性だ。彼女は右目を失明、さらに右腕は義手でありながらも、マテラス王国軍の中ではトップクラスの剣の腕を誇る。


 この一か月の間。彰はアクレスの元へ弟子入りし、軍の練兵場の隅を借りて、ひたすらに剣の腕を磨いていた。

 というのも、彰はすぐに月島へ行くつもりだったのだが、アクレスがそれを止めたのだ。

 その理由は、「弱いから」である。

 この世界で転移者が生きていくには、どうしても転移者狩りとの戦闘は避けられない。自分の身を守れるくらいの力量が無ければ、すぐに捕まるか殺されてしまう。

 そのためにアクレスが出した条件が「システィアに一撃入れること」だ。

 彼女もまたアクレスの弟子であり、彰にとっては姉弟子にあたる。その彼女に一撃入れられるだけの剣の腕があれば、月島へ向かう事を許可するというものだった。


 一撃入れるだけ。しかし、その一撃が遠い。

 彰がこれまで挑戦した回数は、優に百回を超える。しかし、それでも彼女にかすり傷の一つもつけられていないのだ。

「休憩します?」

 肩で呼吸をしている彰を見て、システィアは笑いながら言った。軍での訓練を終えた後、いつも休憩無しで彰の稽古に付き合ってくれている。体力的に彼女の方が辛いはずなのだが、一切辛い表情を見せたことが無い。

「……いや、まだまだ。」

「でも、そろそろ時間も危ないんじゃないですか?」

「時間?」

 彰は時計を見ると慌てて荷物をまとめ始める。システィアに礼を言うと、更衣室まで駆け出した。


 アクレスから出された条件はもう一つある。

 それは「この世界で金を稼ぐ」だ。要は、働かざる者食うべからず、という事だ。

当然だが、彰には異世界で伝手もコネも無い。そんな彰のために、アクレスはとある仕事を持ってきた。


 水浴びをして服も着替えた彰は、中央都内のとある邸宅の前で大きく息を吐いた。そして、服装をしっかり確認すると、玄関の大きな扉を開ける。

「やぁ、アキラ君。今日も稽古ですか?」

「そうなんですよ。相変わらず剣は当たりませんけど……あ、臭いますか?」

「いえ。大丈夫ですよ。さぁ、早いとこ仕事を片付けてしまいましょう。」

 玄関先で声をかけてきた初老の男性は、この邸宅の執事長、バトレルだ。彰は「そうですね」と笑顔で答えると、バトレルの後をついて行った。


 アクレスの持ってきた仕事とは、ここでの家事手伝いである。家事手伝いと言っても、やっているのは簡単な掃除くらいだ。ただ、内容は簡単でも部屋が広いために仕事量は凄まじい。

 この邸宅の主は、マテラス王国軍のシルヴァ中将である。転移者のために仕事を探しているという話をアクレスから聞き、彰を雇ってくれたのだ。


 一か月もここへ勤めていれば、日々変わらない仕事も段々と早くなる。初日には外が暗くなってからも続いていた業務も、陽が沈む前には終えることができていた。今では、彰一人で任される仕事も増えてきた。

 この世界での生活にもすっかり慣れてきた。剣の腕も少しずつだが上がってきているような気もする。ただ、それを素直に喜んではいられない。

 この一か月間、元の世界への帰還方法に関する情報を何も掴めていないのだ。それどころか、彰以外の転移者に会ったことすらない。

 異世界滞在がここまで長くなると予想していなかったために、彰の中で小さな焦りが着実に積もっていた。

「おい、アキラ。」

「……え? あ、はい!」

 廊下には目つきの悪い男が立っている。考え事をしていたせいで、呼ばれていることに気付かなかったようだ。

「親父が呼んでるぞ。」

「シルヴァさんが? あ、今行きます!」

「おいおい、そんなに慌てなくて良い。怪我するぞ。」

 この男はシルヴァ中将の義子、ヘクターだ。その目つきのせいで、よく人々から敬遠されており、彰も初めは会うたびに背筋を伸ばしていた。だが、実際に話してみると、とても優しい人物だと分かった。彼もまた軍人であり、時々だが彰に剣を教えてくれたりもする。

 彰が「失礼しました」と言って部屋を出ると、彼は「いつもご苦労さん」と言って笑顔で去っていった。


 シルヴァの私室は一階の奥にある。彰がその部屋の前に着くと、中から「入りなさい」と声がした。

「失礼します。」

 部屋の中では、細身の男が一人椅子に座っていた。彼は鋭い視線で彰を見ると、鼻にかかった眼鏡を上げる。

 この男こそが、この家の主であり、マテラス王国軍中将のシルヴァである。

「アキラ君。お仕事お疲れ様です。」

「は、はい。あの、お呼びでしょうか……?」

 尋ねると、シルヴァは彰に座るよう促した。

「今日が何の日なのか分かりますか?」

「え……、何だっけ……。あ、シルヴァさんの誕生日ですか?」

「……違います。君の給料日です。」

「あ、そうか。」

 シルヴァは懐から封筒を取り出した。それを彰の前に差し出す。

「これが今月分の給与です。一か月間、ありがとうございました。」

 封筒はそれなりに厚い。一瞬中身を確認したくなったが、それは後だ。彰は礼を言うと封筒をしまった。

「ところで、帰る手掛かりは見つかりましたか?」

 シルヴァがお茶を一口飲んで尋ねてきた。彰は苦笑いしながら首を横に振る。

「そうですか。早く見つかると良いですね。最近、悪い噂も多いですから。」

「悪い噂?」

「えぇ。なんでも、『九頭龍』という組織が転移者を探して、あちこち嗅ぎまわっているとか。」

 彼の言う「九頭龍」という組織の名前は、彰もアクレスから聞いていた。

 それは、「龍」と呼ばれる謎の男によってまとめられた、計九人で構成される暗殺組織だ。その規模は小さいものの暗殺の技術は高く、これまでも政治の裏で暗躍していた組織である。

「一度、壊滅寸前まで追い込んだのですが、再び結成されたという事でしょうね……。」

 シルヴァは眉間にシワを寄せる。

「アクレスがいる限り大丈夫だとは思いますが、くれぐれも気を付けてください。」

 彰はシルヴァにもう一度礼を言うと、部屋を後にした。



 すぐに元の世界へ帰れるだろうと思っていたが、まさか一か月も居ることになるとは思ってもいなかった。

 彰は帰りの途中で買ったパンをかじりながら、すっかり見馴れてしまった中央都の街を歩いていた。遠くには王家が住む城、通称「白桜城」がその白い外壁を茜色に染めている。この世界でも夕日の色は変わらないらしい。

今頃、元の世界はどうなっているのだろうか。直哉の病状は悪化していないだろうか。

 早く月島へ行って元の世界に帰りたい。だが、今の彰では、転移者狩りや森に居たような化け物たちに殺されてしまうことも十分理解している。

どうしようもない不安が、毎日少しずつ積み重なっていく。

「…っと、すいません。」

 ぼうっとしながら彰が歩いていると、人とぶつかってしまった。随分と小柄な人だ。フードを深く被っていて顔は見えなかったが、体重は子供のように軽い。

 反射的に彰は謝ったのだが、その人はぶつかったことを気にすることも無く歩いて行ってしまった。

 気にしてないならいいか、と彰も歩き出そうとするが、そこで小さな違和感を覚えた。立ち止まって、懐に手を入れてみる。

 やはり、シルヴァから貰った給料袋が無くなっていた。

「こんにゃろ……。」

 呟くと、遠くに見える小柄な人影を追って走り出す。スリの方もそれに気付いたようで、ちらりと彰を振り返ったかと思うと脱兎のごとく逃げ出した。


 人通りの多い大通りから逸れて、ずいぶんと閑散とした通りまで来た。

 相手はこの世界の住人。それも、この街にずいぶん慣れた人間だ。この複雑に入り組んだ地形を難なく走り回っている。しかし、彰の方も負けてはいない。この世界に来ての初給料を黙ってスられるわけにはいかないのだ。

 長く走っている内に、深く被っていたフードは取れてしまったようだ。クルクルとカールした栗色の髪を揺らしながら、少女がチラリとこちらを振り返る。そして、苦し気に走る彰を見ると、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。

「……ッなんだと!」

 彰が思わず呟くと、少女は一気にスピードを上げた。何とか捉えていた少女の後ろ姿が、見る見るうちに遠ざかっていく。

 やがてその姿が見えなくなる頃、彰は大粒の汗を拭いながら、道端にへたり込んだ。

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