第26話 魔王陛下という者
ぐっ、と近づいた前魔王が力を込める。
「いっ…!は、離して!」
その掴まれた腕の痛みにハッと我に返り、ミルディアは振り払うように叫んだ。しかし、彼の手の力は強く逃げられない。
「くっ…」
(どうにか、この男から逃げなければ…!)
このままでは自分の正体がバレてしまう。
ミルディアが焦り、ますます腕に掴む手を離そうともがいた。
「……その手を、離せ…!」
すると、そこに飛ばされたセシアの声が響いた。ミルディアを掴む前魔王の右腕に、ボッ!と突然、炎が灯った。
「うっ…!」
その攻撃に、一瞬前魔王が怯んだ。それと同時にミルディアを掴んでいた手の力が緩み、その隙を見てミルディアは手を振り払い、彼から離れようと駆け出した。
「ま、待て…!」
ハッとして前魔王が逃げたミルディアを追いかけようとしたが、それを塞ぐようにして、再び彼の前に炎が灯った。
「くっ…!貴様ぁあ!」
攻撃された前魔王は怒りに声を荒げた。
そのチャンスにミルディアはそのままセシアの元に駆けつける。
「ミルディア!後ろに…!」
セシアは彼女を受け入れるように手を伸ばした。
「セシア様!」
その姿にどこかホッとしたように彼の名を叫び、まだ距離がある彼の方へと懸命に走りながらその手を掴もうと手を伸ばした。
「させぬ…っ」
だが、その手が届く前に、邪魔されて怒りに満ちた前魔王が逃げたミルディアの前に再び現れ、行く手を塞いだ。
「なっ!!」
走っていたミルディアは慌てて足を止めた。
「あぶなっ…わわっ!?きゃ…!」
だが、急なことで止めた足と前に出ていた足が絡みバランスを崩し、そのまま前魔王の方へと倒れ込んだ。
「うぶっ!いったぁ…!」
ボスン!と鍛えられた胸部へと顔から倒れ込み、ミルディアが情けなく声を上げ打ち付けた顔を抑えた。
「もう逃げられないぞ」
その瞬間、頭の上から前魔王の冷たい声が降ってきて、硬直した。
(あ…私、今、前魔王の胸に…!)
飛び込んだ、と自覚すると、心臓がドクドクドク!とうるさく脈打ち、全身から冷や汗が流れた。
ゆっくりと確かめるように恐る恐る顔を上げると、バチッ!と前魔王の冷たくも恐ろしい真紅の目とぶつかり、ミルディアは再び凍りついた。
「止めろ!魔王っ!」
セシアが、鋭く制止の声を上げる。
その声にハッと我に返り、ミルディアは青ざめた顔でぎこちなく手を動かした。
「私は…あなたなんて、知らない…!」
それだけ叫ぶのに、精一杯だった。
その台詞にありったけの魔力を注ぎ、言葉として前魔王にぶちまけた。
刹那、パキパキパキッ!と前魔王が被っていた仮面が凍りつくと、パリーン!と派手な音を立てて仮面が割れた。
「うっ…!?」
その反動にパラパラと割れた破片が前魔王とミルディアに降り注ぎ、割れた仮面の下に驚きと苦痛に歪んだ前魔王の素顔が現れた。
「…っ!!スピネル。やはり、あなたは…!」
愕然として、ミルディアが呟いた。
その口から発せられた名に、彼は驚愕する。
その名は、前魔王陛下の本名、メアリーだった時に彼から教わった真名だった。
「そなた、やはり、私の…っ!」
ミルディアの言葉に前魔王は一瞬驚いたように息を飲んだが、すぐにハッとしたようにその形の良い口元にゆっくりと笑みを浮かべた。
(あ…!しまった!私、自分から…っ!)
その様子にサッと顔色を変えた。
「ミルディア!早く離れるんだ!」
そこに近づいてきたセシアの必死な声が響き、ミルディアはハッとして我に返り、そちらに振り返った。
「セシアさ…!?うっ…?」
だが、突然ぐらりと目眩がして、膝から力が抜けた。
「危ないなぁ、可愛い娘よ」
それを優しく壊れ物を扱うかのように前魔王が受け止め、そっと耳元で囁いた。
ミルディアはギョッとして、慌てて離れようとしたが、足がガクガク震え力が入らず、前魔王につかまっているのがやっとの状況だった。
(くっ…!なんてことっ。早く離れたいのに…!)
支えられなければ立っていられない状況に歯噛みしながら、ミルディアはその歪んだ視界を彼に向け、ゾッとした。
前魔王の顔には狂気じみた笑みが浮かんでいた。
(この男……うっ!)
それを最後、ミルディアは力尽きたように、プツリと意識を失った。
「娘…?」
突然動かなくなった彼女に、前魔王は不思議に思い声をかけたが、彼女から返事はなく、こちらに身体を預けたまま逃げない様子に少し嬉しさがこみ上げて、自然と口元が緩んだ。よく見れば彼女は意識を失っている。
「懐かしいなぁ」
ボソリと呟いて、そのまま起こさないように、膝に手を入れてお姫様抱っこした。
「魔王!その娘に何を…!」
そこに近づいてきたセシアが怒鳴り声を上げて、彼に拳を振るった。
前魔王は振り向く事なくひらりとかわして、鼻歌を歌うかのように上機嫌に自分の腕で眠るミルディアを見つめた。
「ふふ…。こう触れていれば、わかる。この子は、私の愛した娘だ」
「何を、さっきから呟いて…!その娘を返せ!」
どこか懐かしそうに呟く彼に、セシアはもう一度拳を振るった。だがそれも彼は寸前で交わして、首を傾げてセシアの方に振り向いた。
「して…そなた、今はセシアだったか。この子を見て、そなたは気づかないか?この娘が誰なのか…」
どこか呆れたようにため息をついて問いかけ、冷たい目をセシアに向ける。
セシアは何のことかわからず眉を寄せ、「どういうことだ?」と険しい表情をして問いかけた。
「この禍々しい魔力。私と同じ、底知れぬ魔力のことだ。そなたが捜し求めていた、あの娘とそっくりではないか?」
本気で気づいていないセシアに、前魔王は確かめるように言った。
その応えにセシアはハッとしたようにミルディアの方に振り向き、青ざめた。
「まさか、お前はそこにいる人間の娘が、俺の捜し人だと言いたいのか…!?」
ようやく、前魔王が何を伝えようとしているのか彼は理解した。しかし、その身体は怒りに震え、強く拳を握り、前魔王を鋭い目つきで睨み付けていた。
「ふっ…そうだ。この娘は確かに人間だが、人間は闇の魔力など持たぬだろ?それなのにこの娘にはあってはならん魔力がある。それを考えれば自ずと答えは出るではないか。この娘の魂が元は私の娘、メアリーのものだから、人間なのにこうして闇の魔力を持っているのだと…わからないか?」
スッと真紅の目に影が差して、真剣な表情で呟く。途端にその場の空気が重く、冷たくなった。
セシアはその目に戦慄し、冗談だろ?とぎこちなく笑い飛ばした。
「あり得ないだろ、そんなの。俺が気付かないはずがない!この娘がメアリーなら、俺はとっくに気付いていたはずだ!」
だが、セシアは彼のその言葉に苛立ったように否定した。
今まで近くにいて、一度もミルディアの事をメアリーだと感じたことがない。
セシアには自信があった。
彼の中の過去が、ミルディアの中に眠るメアリーの魂を間違えるはずがない、と。
何のために、あのメアリーを裏切ったか…。セシアという人間に化けながら、人間界で彼女を捜し続けてきたか、この前魔王は何もかも知っているはずなのに…。
「私が、嘘をついていると…?それこそ、何かの冗談だろ。私がそなたに今更嘘をついて何になる…?あの日、私たちは誓ったではないか」
前魔王陛下もまた、ある契約に縛られ、生まれ変わった一人だ。
全盛期のあの強大な魔力は失われ、一度、この世を去った前魔王、スピネル。
そのとき、あのルーカスだった、この目の前にいる人間に化けたセシアと誓いを立てたのだ。
魔王陛下という名を剥奪し、ルーカスに与え、臣下として新魔王陛下を支えていく一人になること。そして、最愛の娘、メアリーを聖女側の人間から守るために、彼女は死んだのだと、彼等に信じさせることだった。
「ああ、お前に言われた通りだ。俺は最愛の女を…メアリーをこの手で殺めた。聖女の騎士の呪いを解き、聖女側に彼女が死んだからと、これで命を脅かす者はいなくなったのだと、彼女の過去を清算した」
そうすることで、聖女側の呪われ生き残ったあの息子は、メアリーを追わなくなり命を奪う事はなくなる。だから、セシアは一役買って、メアリー自身をも騙してその命を奪い、生まれ変わる彼女を捜し出し、今度こそ全てをやり直し、幸せになりたかった。
「私は嘘をつけない。予想外だがようやく、メアリーを見つけたんだ。なぁ、ルーカス。見つけたからには、もうこの娘を手放せない。あの日、私たちは、誓ったはず」
二人が交わした強い誓いを、スピネルはセシアに思い出させようと、強調して言った。
セシアは、ルーカスは未だに信じられない思いでミルディアを見つめ、迷うように視線を彷徨わせゆっくりと口を開いた。
「あの約束は、必ず守る。そういう条件で俺に力をつけ、魔王として生まれたんだ。それはどのみち、俺がしなければならない事だ。だが、その娘のことは…まだ確証がない。ミルディアは小さい頃から知っている娘なんだ。仮にメアリーだとしてもまだ人間の体だ。ここに留めては置けない」
そこまで告げて、どこか悲しそうな目をミルディアに向けた。
「それは知っている。この娘は人の体にいる。だが、そなたが何と言おうと、私が先に見つけてしまった。この娘を人間界に帰すつもりはない」
ハッキリと、そしてどこか狂気に満ちた様子で、前魔王が宣言する。
どこまで勝手で強引なのか…。これこそ魔王の性であるが、今は目の前のミルディアをメアリーと決めつけ、執着している。いつもの冷静さが失われている。
セシアは彼の本気を目に微かに息を飲み、顔を強張らせた。
「ま、待てよ。まだ、その娘を、こちら側に置くのは危険だ。人間の身ではこちらでは長く持たないだろ?メアリーだとしても、急には無理な話だ」
落ち着け、と話が通じない彼を説得しようとする。
セシアはどうにか、ミルディアを元の場所に帰したかった。
「…なら、そなたが早くここに戻ればいいではないか?そなたが魔王としていれば、この国が安泰する。人も、植物も、何もかも元通りになる。そうなれば人間界に帰すなどという選択肢などなくなる」
これには流石に参ったようだ。
セシアはまだ、ここで魔王陛下としているつもりはない。
ミルディアがメアリーだと言っている彼を信じていないからだけじゃなく、やり残した事があるからだ。
「……わかった。あんたのいう通りにする。だが、少しの間だけ待ってほしい。その娘にも人間としての家族がいるんだ。俺を戻すなら、彼女にもチャンスをくれ」
苦渋の選択とはいうが、セシアには、これが初めから決まっている事だ。
聖女のこともあり、逃げられないところまで追い詰められていた。
「ふむ…。チャンスか。まぁ、それならいいだろう。この子と離れるのは悲しいが、二百年ほどは待ったんだ。私にとってはすぐのことだ」
かなり不利な条件となるが、穏便に事が済み、ほっと息をついた。
「感謝する。では、その娘をこちらに…。すぐにまた、連絡する」
ミルディアを預かると、セシアは前魔王の方に手を伸ばした。
「…約束だぞ、ルーカス」
それを前魔王はうなずき、抱いているミルディアを渡すと、そのときセシアの伸びた手に印をつけた。
「いっ…!?なにを…?」
ピリ!とした痛みに顔をしかめる。
セシアは片腕でミルディアを抱え直し、自分の手の甲を見つめた。
「印だ。その期限までに戻るという、証。守らなければ今度こそ、私はその娘も、そなたの立場も好きにさせてもらうぞ」
脅しを入れて前魔王は誓いを立てる。
その本気にセシアも真剣に頷き、誓った。
この二人のやり取りを、誰も知る者はいない。
生前のルーカスの格好をしていた前魔王は、今のセシアという男を見て、微かにその口元に笑みを浮かべた。
……ミルディアが意識を戻したのは、セシアが屋敷に連れ戻した翌日の事だった。
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