第29話 希望を求めて4

「おやおや、もうカウントがスタートしていますよ。あと53秒だ」


 考える余裕を与えないとばかりにクレーンが動き出す。


 歯を噛み締めたリズは殺意を浮かべた形相でラルクローズを睨みつける。機構刀を抜いて全速力でラルクローズの元へと駆け、


「このゲスが!!!」


 湧き上がる怒りのままに袈裟掛けにラルクローズを切り裂いた。空を切った刀は木製のオフィスデスクの端部を切り飛ばして止まる。


 少しブレたラルクローズの映像は、依然としてニヤニヤと顔を綻ばせていた。


「下衆とは失敬な。これでも世界を股に掛ける大商人ですよ。さあ早く憲兵IDを読み取り機に翳したまえ。それだけでキミは助かるし、500万サイカ分の仕事の契約も取れる。願ったり叶ったりじゃないか、ふふふふ」


「クソっ!!!」


 機構刀を放棄したリズはオフィスデスクへ右拳を叩きつける。握りしめた震える拳には制定のグローブに爪がめり込むほどに力が込められていた。


 憲兵IDには年齢・住所・性別などリズの個人情報だけでなく、家族関係や持病といったあらゆる情報が詰まっている。国を守る礎である憲兵のIDは王国法でも厳しい管理が義務付けられており、盗難や紛失によって憲兵を追放される者も多い。


 そして何より、この老人に個人情報が渡るのは憲兵を追放されることよりもずっと怖い。どんな凶悪犯罪に利用されるか想像もつかないからだ。


「あと20秒を切りましたねえ。そろそろクレーンを動かしますか」


 動き出した2本のクレーンアームがそれぞれ檻を掴みあげる。内部に捕らえられているファングボアはリズを視界に捉えるや、体当たりをして檻を盛大に揺らし始めた。よほど興奮しているようだ。


「あと12秒ですね」


 ラルクローズの言葉は脅しではない。このままリズがIDを翳さなければ問答無用にモンスターを放つだろう。死への恐怖と正義感、背反する二つを戦わせたリズは苦虫を噛み砕くような表情で苦悶する。

 そして指を震わせて腰のポーチへ手を掛け、憲兵IDカードを取り出した。


「9、8、7」


 期待に胸躍らせるような声色でラルクローズがカウントダウンを行う。


 胸の前で憲兵IDを抱えたリズの全身に鳥肌が広がる。これまで積み上げた日々が音もなく崩れ去る様が頭をよぎる。絶望、怒り――言葉にならない感情が込み上げてくる。


「6、5、4」


 遅疑逡巡の暇もない。歯で抓っていた下唇を噛み切ったリズは憲兵IDカードを読み取り機に翳した。数秒でピピッという電子音が木霊する。 


「これで契約成立ですな。これからよろしくお願いしますねえ、ふむリズ・コルベット少尉殿」


 さっそくリズの個人データが送信されたのだろう。携帯端末に視線を落としたラルクローズは食い入るように画面を見つめる。


「ほう、母上がステージ3のガン患者か。なるほど、さしづめ手術費用に金がいるといったところですかねえ。しかも父親はあの偽薬事件の被害を被って亡くなっている。はっはっはこれはこれは。本当に面白い人材が来てくれたものですね!」


「…………」


 ラルクローズはなおも大仰な身振りで薄ら笑いを浮かべて演説をする。無表情で俯き加減のリズとは天と地のような対比だった。


「気が変わりました。貴女には当初とは別の依頼をお願いしようと思います。内容は貴女のメールアドレスに送信しますのでお待ちください。私はこと商談においては相手を裏切らない人間なのでご安心を。仕事をこなせれば500万サイカはきっちりとお支払いします。ではではお疲れ様でした」


 ラルクローズが腹部に右手を当てて会釈を行うと、照明が元の明るいモノに切り替わった。また檻を掴んでいたクレーンアームは壁のガラス裏側に戻っていく。


 次いでアームを動かしていたエンジン音とラルクローズのホログラムが消滅した。ガラスも曇り色に濁り、退路を塞いでいた鉄格子もゆっくりと巻き上げられていく。


 これまでの喧噪が嘘のように広間を静寂が包み込んだ。


 デスクの淵を掴んだまま崩れ落ちたリズは両腕の隙間に顔を差し入れた体勢で項垂れる。漂う血生臭さを鼻腔に感じつつ、心の中で軽率な自分の行動を何度も何度も呪った。 


「ううぅ……」


 頬を伝った涙が膝頭に落ちる。涙を流した感覚がないのに勝手に溢れてきていた。

 母親の病気を治すために、父を奪った悪を征伐するために憲兵になった。それなのに憎むべき悪に手を貸すだけでなく、母も危険に晒されるかもしれない。そんな思考が際限なく脳内を駆け回って喉の奥が熱くなり、吐き気がしてくる。


「あああああぁぁ!」


 激高したリズはデスクに常備された本立てやコピー紙をバラバラに散らした。奥にあるモンスター用の果実や食材も全て吹き飛ばし、蹴り入れて読み取り機が据え付けられた机を押し倒す。


 立っている気力が持たず座り込み、あらゆる事物が散乱した周囲を薄目で眺める。涙で滲んだ視界はぼんやりと霞んでいた。


 ここにはモンスターしか居ない。誰が助けてくれる訳でもない寂しさと心細さにうちひしがれるように呆けたリズは座りこんで数十秒を過ごした。



 少しだけ落ち着きを取り戻した脳にガラガラと檻を揺らす金属音が飛び込んでくる。檻に潜むモンスターたちがリズの叫びで興奮状態になったのだろう。未だヤツの本拠地にいる危うさを自覚したリズは足元に転がっていた機構刀を拾い上げて鞘に収める。


「行かないと、なにもかわらない」


 自戒するように小さく呟いたリズは重い足取りでとぼとぼと広間を後にした。



 虚ろな視線で一歩ずつ踏みしめた暗い昇り階段は降りてきたときよりずっと短く感じた。このまま闇に融けてしまいたい心持ちのまま、明るく照りつけた蔵の出口へと半身を出すと、


 ギシギシ――軋み音を伴って眼前の木製扉が開く。


 機構刀の鯉口を切って身構えたリズはしかし、隙間から覗く怯えたような子供の顔に気が付いた。


「あああああ、本当にかえって来た!!」


「すごーい。帰ってきたのってはじめてだよ!」


 蔵の扉を開け放ったのは年端のいかない男の子。その子の後ろから興奮したように身を乗り出したのは、ウェルクロスでリズにお茶を淹れたユイナだった。

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