第10話 アンナ医師との戯れ

「相変わらず騒がしい病院内じゃな。診察を受けるのに何時間も待たされると思うと来る気もなくなる」


 診察室へ入ったリサは傍らの診療ベッドに腰を下ろして背中のリュックをゆっくり下ろす。眼前には水色の髪を短いポニーテールに括ったアンナ・ヴァネット医師が椅子に座って不満そうな表情で頬杖をついていた。


「ったく、帰ってきて早々悪態つきやがって」

 

 優秀な外科医である彼女はタツキの主治医である。白衣を着ているため落ち着いた雰囲気だが、襟元から垣間見える黒いパンクシャツと脚部のレッグポーチには残念ながら欠片も医者の風格はない。白衣を脱げばグレた学生にしか見えないだろう。


「腐るほど診療科があるから仕方ねーだろーが。てかタツキてめえ、顔も腫れてるし打撲しまくりじゃねえか。コイツにやられたか?」


「ちょっと学院でヒュージゴブリンが脱走する騒ぎがあってな。鎮圧してきた」


「よく死ななかったな。ヒュージゴブリンなんて軍が出動するレベルの大物だろ。やべえな、なんじゃそりゃ」


「まあ、それはよい。さっさと本題へいくぞい」


「いや、全然よくねえけど。ああ、まあ取り合えずブツは確保してる。グリュックの初回出荷数が限られてるつって足元見てきやがるから、こっちに回すように病院に交渉させるの大変だったんだぞ。ちょっとは感謝しろよー」


 白衣の胸ポケットから出した紙箱にはサラクチンと銘打たれた小瓶が入っていた。アンナは容量・用法が書かれた紙と共に同意書を差し出してくる。


「んじゃ、同意書にサインする前に病状をチェックするか。背中を向けろー」


 タツキは薄い半袖シャツを脱いで背中を晒す。

 へその高さから肩甲骨にかけて張り付いた銀色の金属板のような皮膚が灯を反射する。 左肩に関しては金属板が鎖骨に迫る箇所まで広がっており、いよいよ背中全体を埋め尽くす勢いである。


 無論、金属ホイルを背中に張り付けた訳ではなく、変異によって形質変化した本物の皮膚である。

 腕組みをしつつ注視していたリサは怪訝な表情で肩を震わせた。唇を軽く噛んでから絞り出すように声を張った。


「なぜ……短期間でこんなに広まった」

「確かリサがニボンに行く前は肩甲骨に届かない位だったか。たった一年で随分と成長した。ちょうどライダス製品が輸入され始めた頃と同時期。偶然かあるいは何かしら関連があるか」


 タツキ自身も一年前から変異の進行が早まっているのは自覚していた。だが現在の医療では対症療法のみで打つ手がないのが現状だ。

 とくにタツキのように体の一部の形質が変化する症状は症例の個人差が大きく、患者のサンプル数も少ないため十分な研究が進んでいない。


「真っ先に考えるのは食品からの滅生物質の摂取だが。まさかタツキに限って、そんなバッチイもん食ってないよな?」


 背中を向けていたタツキはなんとなく逃げ出したい気持ちに襲われる。金銭的に厳しいため、ライダス製食品も多少は摂取しているなんて、いえない。


「もちろん食ってねえよな?」


 顔を背けたもののアンナに回り込まれてしまった。もう逃げ場がない。

 目を逸らしたタツキは「ほんの少しは……」と正直に白状する。


――パチンっ


華奢な指で放たれたデコピンがタツキの額にクリーンヒットする。これだからアンナに言いたくなかったのだ。


「痛ってぇ……」


「ったく、アホかよ」


「ぼ、暴力反対ですよ。医者なのに」


「おー、言うねえタツキ。あたいにデコピンして貰えるなんて光栄なことだぞ。わざわざデコピンをせがんでくる輩までいるからな」


 どこの変態だよ、というツッコミは残念ながら心の底にとどめた。

 傍らのリサは未だに深刻な表情を浮かべてタツキの背中を見つめて思考を巡らせている。


「滅生物質が大量に食品内に添加されているという可能性は?」


「まあ、ねえだろ。今回の輸入規制緩和の前から食品類は輸入されているし、その殆どはアルフロイラに認可された国内機関で検査済みだ。検査データを粗方漁ってみたが、滅生物質の添加は確認されなかった」


「タツキの変異進行を食い止められそうな手段はコイツだけということか」


「あたい個人もグリュック社にはいい印象がねえ。一応、ライダスでの新薬審査は通過しているものの、サラクチンの十分なデータは提供されてねえしな。提供されてたデータといえばプラセボとの有意差くらいだ」

 

 書棚から引っ張りだしたファイルにはサラクチンの治験データがあった。幾つかの統計指標と見慣れない数値が並んでいる。


「ざっと300人の被験者に対して変異が縮小する効果があり、目立った副作用はないと報告されてる。本当なら大規模で長期間の治験結果も載せる必要があるが、革新的な新薬ということでライダスでは省略されて認可されたらしい」


「要するに何があっても自己責任というわけですか」


「まあ要は運ゲーだ。妙な長期毒性なく効果が表れるを祈るしかねえだろうな。飲むか飲まねえ決めるのはタツキ自身だ。さあ、どうする?」


 アンナは胸ポケットに挿していたボールペンを机上に置かれた同意書に添えて押し出す。まるで選択は決まっているとばかりに。


 ちらりとリサを一瞥すると難しい表情のまま固まっていた。

 数少ないサラクチンの初期流動は紛れもなくフェーズ3の治験そのもの。傷だらけのタツキを保護したときから手塩に掛けて面倒を見てきた保護者として複雑な心境を抱えているのだろう。


 だが希望があるならば賭けてみるしかない。

 タツキは同意書をよく読んでから署名欄にタツキ・ランバートと書き記す。


「リサ教授やアンナさんが入手してくれたチャンスを手放すほど馬鹿じゃないですよ。この薬の効果に期待します」


「いいねえ、その意気だ。きっとサラクチンがその不自由な変異を救ってくれるさ。現にてめえの右手、少し動かしにくいんだろ?」


 走らせていたペンを止めたタツキは不思議そうに顔を上げる。

 

「…………なんでわかるんです?」


「筋肉の使い方を見てればなんとなく。その丸椅子を左手で引く動作もぎこちなかったしな。街を歩くときには気づかれねえようにしろよ。汚染保護法みてえなクソ法律のせいで見つかったら隔離病棟行きだ」


 汚染保護法――滅生物質によって異形を持つに至った者を隔離することで感染を防ぐという法律だ。大災厄の混乱の最中にウイルスや細菌による伝染病と勘違いされて施行された法だが、なぜか今でも幅を利かせている。


「そのクソ法律のおかげで秩序が保たれているのは悲しいが事実じゃ。この薬で快方に向かうことを祈っている」


 遺伝子変異と明らかになった当初は悪法との批判が殺到したが、変異が脳に至って周囲の人間を襲う事例が知られるにつれ、人々に受け入れられていった。この法律により頭部付近に変異を持つ者たちは隔離病棟に入れられて軟禁状態になる。


「あたいも同感だ。少し触るからじっとしてろよ」


 アンナが変異部に触れてもタツキは例の如く何も感じない。ちょうどモンスターの対弾装甲のように触覚が麻痺しているのだ。


 皮膚組織がどうなっているかタツキも興味があるのだが、変異部が傷つくと急速に進行した変異例もある。そのため発症してから8年ほど経過した今でも”徐々に広がる”という特徴以外は分からない。


「左肩甲骨あたりは2週間前よりも硬く変異して厚みも増したように見えるな。そりゃこれじゃ上手く動かせねえわな」


 アンナの言うことは的確に当たっていた。タツキ自身も日常の動作に支障が出るときが稀にある。


「少し感覚は異なるものの何とかやれてますよ。それに薬を飲めば治るでしょ」


「一回1錠を朝晩。この小瓶一本で一月分だな。無くなるまでに次のサラクチンも入手しておいてやる。効果を最大化するためにも治るって完璧に信じこんで飲めよ。よし、まずサラクチンの件は終わりっと」


 素早く同意書を回収したアンナは入れ替わりで何かの調査資料と思しき紙束を机上に広げる。タイトルは”アルフロイラでの変異進行の加速状況”とあり、国内居住地区毎の変異患者数分布が細かく記載されていた。


 それらデータを指さして捲し立てるようアンナは告げる。


「変異が加速しているのはタツキだけじゃねえ。ここ一年で色んな患者の変異が有り得ない加速を示してる。楽しいデータ解析の時間に付き合ってもらうぜ?」

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