ボクと吸血鬼の七日間 ~彼女はボクに夢中なようです~

おうさまペンギン

ボクと吸血鬼の七日間 ~彼女はボクに夢中なようです~

 吸血鬼。ヴァンパイア。


 日光と十字架を恐れ、夜の闇に紛れ人の生き血を啜る怪物。

 物語の中や伝説にしか登場しない、架空の存在。


 ――そんな吸血鬼とボクが出会ってしまったのは、まだ夏の暑さが残る九月の中頃のことだった。


 「ねえ、北公園ってしってるかしら?」


 学校帰り、夜の帳がおり始めた通学路で、ボクは彼女――エステルに声を掛けられた。

 街灯の無い住宅街でも、彼女の透き通るような金髪と、白蝋のように青白い肌は月明かりを反射して儚げに輝いていた。


 「え、えっと……」


 ボクは言葉が出てこなかった。

 ボクが気圧されたのは、妖艶な光をたたえる彼女の深紅の瞳なのか、それとも生き物のように艶めかしく濡れた紅いくちびるなのか。


 「き、北公園でしたら、こっちです」

 

 辛うじて声を絞り出して、ボクは方角を指し示した。

 ボクの家とは、反対の方角である。

 

 「案内してもらえるかしら?」


 彼女の言葉は、頭の真ん中を貫いたかのようにボクに染み込んだ。

 薄い笑いを浮かべた彼女の瞳が、怪しく光っている。


 明日までの課題をやらなきゃいけないから。

 もうすぐ見たいテレビ番組が始まるから。

 お腹が空いたから。


 ボクの頭の中には、いくらでも断る理由が浮かぶ。


 だが、ボクの口から拒絶の言葉は出てこなかった。


 「つ、ついて来てください」

 「あら、ありがとう」


 エステルにそう告げると、ボクは家とは反対方向に進み始めた。


 公園までの道中、ボクと彼女の間に会話は無かった。

 ボクは、熱に浮かされたかのような浮遊感を感じながら、歩き続けた。

 

 ――ボクの体が、勝手に動いているみたいだ


 「……ここです」


 辿りついた夜の北公園は、しんと静まり返っていた。

 人の気配どころか、生き物の気配も全くしない。


 昼間は近所の子供たちが遊んでいる遊具たちも、薄闇の中にぼんやりと浮かび上がっている今は不気味だ。


 「じ、じゃあボクはこれで」


 そう言って踵を返そうとするボクの耳に、再び彼女の声が甘ったるく響いた。


 「こっちへいらっしゃい」

 

 エステルは、いつの間にか公園のベンチに座っていた。

 ボクの方をまっすぐに見たまま、右手をゆっくり動かしている。

 

 その手を眺めているうちに、気が付くとボクはエステルの隣に腰を下ろしていた。


 「いい子ね」


 そう言って、エステルはボクの頬に触れた。

 エステルの手から、ボクの体に電流が走ったような感覚がして、ボクの全身から力が抜けた。


 ――動けない。


 「さあ、私の目をみて」


 そう言って、エステルは自分の顔の前にボクの顔を持ってきた。


 近くで見た彼女の顔は、彫刻のように整っていた。

 

 彼女が、燃えるような紅い眼でボクの眼を見つめる。


 ボクの眼は、彼女の眼に浮かぶ怪しい光の揺らめきに捕らわれたようだ。

 瞬き一つできない。


 「大丈夫、痛いのは一瞬だから」


 そう言って、エステルは口元をほころばせた。

 ちらりと、一対の白い牙が見える。


 ――ああ、この人は吸血鬼なんだ。


 わずかに残ったボクの思考が、そう告げた。

 

 ――今からボクは、この人に血を吸われて殺される。


 ボクには不思議と、それが当たり前のことだと思えた。

 こんな美しい人の糧になるのは、義務のようなものだ。


 エステルが微笑んだ。

 ボクもあわてて微笑み返そうとするが、力が抜けた口はだらしなく開いたままだった。


 ゆっくりと、エステルの顔が下がる。ボクの首筋へ。


 ボクは、彼女が口を開くのを感じた。

 熱い吐息がボクの首にかかる。


 そっと、首筋に彼女の牙が触れた。

 

 体を動かせないボクは、彼女の肩越しに夜空を見上げたまま、それを受け入れる。


 ――せめて、ボクの全てが彼女に吸い尽くされますように。


 そうしてボクは、彼女の牙が突き立てられる感触を待った。



 一分。二分。

 

 エステルは、ボクの首筋に顔をうずめたまま動かない。


 ――あれ?


 「すんすん、すんすん」


 首元からは、まるで犬が匂いを嗅ぐような音が聞こえてくる。

 

 ――まさか、いやそんな。


 ようやく少しだけ動くようになった頭を下げ、視界の端に彼女を捕らえる。


 エステルは、ボクの首筋に鼻を当てたまま大きく息を吸っていた。


 「あ、あの……」


 ボクはかすれた声を絞り出す。


 ボクの声に、エステルが顔を上げた。

 

 初めて見せる、驚きと恥じらいの混ざった表情だった。

 ボクが見つめると、エステルの顔がみるみる赤くなる。


 そして――

 

 「えいっ」


 そんな気の抜けたような声と共に首筋に衝撃を感じると、ボクは意識を手放した。


***


 ボクは、知らない天井の下で目を覚ました。


 ――ここは、どこ?


 鉛のように重い頭でゆっくりと記憶を辿る。

 だが、学校を出てからの記憶には霞がかかっているようだった。


 ――たしか、とても綺麗な人に会ったような……。それから、


 「すんすん、すんすんすん」


 ボクはそこで、隣に寝そべっているエステルの存在に気付いた。


 「うわっひゃ!」


 思わず声を上げて飛びのいてしまった。


 「おはよう」


 そんなボクの様子が面白かったのか、彼女は微笑みをたたえたままベッドの中からボクを見上げる。

 無防備な胸元からは、白く滑らかな肌が覗いていた。


 「ち、ちょっと!」


 ボクは顔を真っ赤にしながら、手で顔を隠した。 


 「こ、ここはどこですか!?」

 「私の家よ」


 彼女はそう言うと、顔を隠していたボクの腕をつかんだ。

 そのまま、ものすごい力でベッドに引き戻される。


 「かわいい反応ね」

 

 そう言って笑った彼女の口元には、やっぱり鋭い牙があった。


 ――全部思い出した。ボクは昨日吸血鬼にあって、それから……


 「ぼ、ボクはあなたの眷属になったんですよね」


 吸血鬼に血を吸われた人間は、その眷属となる。

 エステルに出会ってしまったボクが今ここにいる理由は、それしかないはずだ。


 「眷属? 血を吸ってないから、そんなのになっていないわよ」


 しかしエステルは、あっけらかんと言った。

 

 「ち、血を吸ってない?どうしてですか?」


 エステルはその質問には答えずに、ボクを抱き寄せる。


 「な、なにをしてるんですか!?」


 彼女は無言で、ボクの頬に鼻を近づけてきた。


 「すんすん、すんすん。やっぱりほっぺが一番いい匂いだわ」


 そう言って、一人納得したかのようにうんうん頷く。

 続いて、エステルの鼻はボクのおでこに移動した。


 「くんくん。でもおでこも捨てがたいわね。甘い匂いがたまらないわ」


 うっとりとした口調でそう言ったエステルの顔は、だらしなく緩んでいた。


 「……もしかして、ボクの血を吸わなかったのって」

 「そうよ」


 彼女は、初めて見せる無邪気な笑顔で、こう言った。


 「あなたを吸血鬼にしてしまったら、この素晴らしい匂いが無くなっちゃうじゃない!」


 その日から、ボクとエステルの共同生活が始まった。


 

 二日目――


 「ほっぺちょうだい!」


 エステルは、日に何度もボクの部屋にやってきては、頬や額の匂いを嗅ぎに来た。


 「うーん!幸せぇ……」


 匂いを嗅ぐたびだらしない顔をするエステルには、もはや最初に出会った時の妖艶さのかけらも無い。



 三日目――


 「うわっ!すごい!あなたを抱きしめながら匂いを嗅ぐと、もっと幸せな気持ちになれるわ!」


 エステルが新たな(くだらない)発見をしたようだ。


 「くんくん、すんすん。あぁ、幸せ……」

 「え、エステル。苦しぃ……」


 部屋に入ってくるたびに吸血鬼の膂力で抱きしめられ、ボクは一日中クラクラしていた。



 四日目――


 「抱っこ!ほっぺ!」


 この日から、エステルが一日中ボクの部屋を出なくなった。

 彼女は、朝から晩までボクの匂いを嗅ぎ、その都度ボクに抱擁を求めてくる。


 「だってね、自分で抱きつくよりも、あなたにぎゅーってされる方が幸せになるのよ」


 そう言ってニカっと笑うエステル。

 吸血鬼としての彼女の威厳は、もはや牙ですらただの八重歯に見えてくるほどに失墜していた。



 五日目――


 「ぎゅっぎゅなのー!くんくんなのー!!」


 いつの間にか、エステルの要求がストレートになってきた。

 もはや自らの欲望を隠す気すらないようだ。

 

 ――なんだか幼児退行してない?


 ボクは朝から晩まで、彼女の要求に応え続けた。



 六日目――


 「ぎゅー!!して!」

 「はいはい、後でね」

 「やんや、やんや!いーまー!今すぐぎゅっぎゅ祭りしてー!!!」


 気が付いたときには、立派な一人の赤ちゃんが出来上がっていた。


 「はい、エステル。おいで」

 「わーい!ぎゅー!」


 広げたボクの腕の中に勢いよく飛び込んできた彼女は、そのままボクの胸の匂いを嗅ぐ。


 「くんくん、くんくん。あーいい匂い!」


 いろいろな柔らかい所をボクに当て、無防備な服の隙間からは見えてはいけないものが色々見えているが、もはや赤ちゃんとなった彼女には関係ないようだ。


 

 そして七日目――


 「……あのさ、エステル」

 「すんすん。何? くんくん」


 エステルは、ボクの眉間の匂いを一心不乱に嗅ぎながら返事をした。


 「……そろそろ家に帰りたいんだけど」

 「いやっ!」


 その瞬間、エステルが泣き出した。


 「やなの! 『ぎゅー』と『くんくん』が無いと生きていけないの! 帰っちゃダメ!」

 

 手足をばたばたさせ、ボクに縋りついてのガチ泣きである。


 「いや、でも流石にボクの両親も心配していると思うから……」

 

 いくらおおらかな両親でも、息子が一週間も帰ってこなければ捜索願くらいは出すだろう。

 ボクはそう言って、ベッドから起き上がった。


 「気が向いたら、これからも時々遊びに来るから」


 しかし、エステルは納得しなかった。 


 「やんや、やんや! 毎日あなたの匂いがかげないとストレスで死んじゃうわ!」


 ――元々生きていない吸血鬼のくせに、何を言っているんだ。


 「うぐっ……、ひぐっ。行かないで……。せめて連れて行って……」


 エステルの鳴き声は、しまいにはすすり泣きに変わった。

 美しく整っていた顔も、今や涙と鼻水でぐちゃぐちゃである。


 だが、ここは心を鬼にするところだ。

 自分の家族の元に、こんな危険な怪物を連れていけない


 「……もう吸血鬼をやめるなら考えても――」

 「やめる!私吸血鬼やめる!」


 即答だった。


 「吸血鬼をやめたら、毎日匂いをかがせてくれる……?」


 上目遣いで縋るような彼女の紅い瞳。

 もはやそこには何の魔力がこもっていないが、ボクにはこの目を見捨てることはできなかった。


 「はぁ……。うちに来る?」


***


 その日を境に、ボクの街から吸血鬼が消えた。

 


 そして――


 「不束者ですが、本日からどうぞよろしくお願いいたします」


 ボクの家には家族が増えた。


 どこで覚えたのか三つ指をつき、誤解を招くような挨拶をしたエステルを、ボクの両親は暖かく迎え入れた。


 「エステルちゃん、うちの息子をよろしくねぇ」

 「はい、お任せください!」


 夕食の後、仲良く並んで皿を洗いながら、母さんとエステルがそんな会話をしている。

 彼女は、ボクの家族の前だと見事に猫を被った。


 (先に部屋に行ってて。すぐ行くわ)


 横を通り過ぎるとき、エステルはボクにしか聞こえない声で、そう言う。

 ボクは手を上げることで応えた。


 ボクが部屋に入ってしばらくして、扉が開かれる。


 カーテンの隙間から差し込む月光に照らされた彼女は、初めて出会ったときと変わらず美しかった。

 あの時僕を捕らえた瞳には、もう魔力は宿っていない。



 それでも――


 「ぎゅっぎゅなの!くんくんなの!」


 ボクは彼女から逃げられない。

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