8

 三波が山内に呼び出されたのは、ちょうど正五郎戦死の報が届き、情報管制室が耐え難い沈黙に押しつぶされそうな時であった。

 猟犬のような男の子だった――といえば聞こえはよいが実際のところいまだ思春期まっさかりのような彼のおかげで、三波は徹夜明けで彼の前に立つことはできなかった。それがどうにかならないかと一士に相談した結果、なんと香水を使うことになってしまった。ほとんど化粧っ気のない生活を送っていた三波には、はなはだ恥ずかしい買い物ではあったが、年甲斐もなくうきうきしたのを鮮明に憶えている。しかしそれでも正五郎の鼻をごまかすことができず、いつも彼よりそっけない労りの言葉をもらっていた。もっとも彼が好きなのは銃油のにおいのようであったが――今も、その時買った柑橘系の香水を三波はつけていた。多くの部下の手前、そんなことはおくびにも出せないが、三波は危うく泣きそうになっていた。山内には感謝しなければならない。

 最低限の指示だけを残し、三波は山内を連れ立って情報管制室を逃げるように後にした。

 人気のない執務室へと通じる廊下。この戦時において数冠者の執務室を訪れるものはいない。そしてその執務室に残っているものは、もう、いない。

 自身の執務室の扉に三波は背を預け、山内と向き合った。執務室に入らなかったのは、三波の残り少ない責任感の表れか。きっと執務室に戻ってしまえば、三波は迷うことなくベッドに横になるだろう。そのことが三波には容易に想像できた。

「それで……なんなの?」

「――情けない。すでに自分の手ではどうにもならないといって、世を儚んでいれば、誰かが同情してくれるとでもお思いであられますか、三波様?」

「別にそんなつもりは――」

「ならば八つ当たりなどではなく、自らを数冠者へと押し上げた、その卓越した情報処理能力で現状把握に務めて下され。総司令が泣きそうな顔をしておられては、みなが不安になるだけでございます」

「…………」

 三波は〝事務屋〟と呼ばれている。それは数冠者の中で唯一彼女だけが文官であり、その仕事の多くが、内外を問わない折衝と〝天京〟内の情報操作であるからだ。オーガナイザーとしての能力は凡庸ではあったが、その卓越した交渉術、様々な事象を高次なレベルで捌ける情報処理能力を買われ、彼女は数冠者入りを果たしていた。そして、なぜ彼女が今のようなオーガナイザーとして、ある種異端とも言える道を目指そうとしたのか――自らの動機を思い出すと同時に、

 三波の脳裡に、薫風になびく新緑の大木がよぎった。

「一士様がご出陣なされる際に、このようなことを――」

 三波が山内の言葉をさえぎった。

「いいわ、言わなくていい。山内、わかっています。あなたはすぐに管制室に戻って指示を。一士の動きを追って」

「――かしこまりました」

 三波は山内が消えるのを待って、歩き出した。まず居室に戻ろう。せめて身だしなみを整えて――三波は思い出していた。

(ごめんなさい、一士。私は、いったいなにを意地になっていたのかしら、自分のちっぽけなプライドよりも、もっと、もっと大切なものが私にはあったはずなのに、どうして今まで忘れていたの――)

 三波の自問自答に、答えを与えるのは簡単だ。

 彼女が、きわめて多忙だったからだ。

 目的のためであったはずの仕事が、いつしか目的そのものへとすり変わって三波の身体をがんじがらめに縛ってきたからだ。

 彼女が目的のためのステップであるという意識では、仕事を行ってこなかったからだ。

 三波の、生真面目で一本気すぎる性格がこの結果を招き、そして天衣無縫な一士への態度をどんどん硬化させていった。そう遠くない過去の日に、ふたりは約束をしたのだが。――今、三波はその時のことをありありと思い出していた――



「――大丈夫、×××?」

 一士が顔を覗きこんでくる。三波は見られたくない一心で、祈った。夢なら覚めてくれ、と。

「なーに、泣いてんのよ、もう」

 三波にはなにが、もう、なのかわからない。

 風が鳴ると、ざわざわと枝葉が呼応した。

「そうそう、」

 振り返った一士が、にやりと笑った。

「兵八とはもうヤったの?」

 歯に衣着せぬ物言い。なぜこんなときにそんなことを言うのだろうか。

 カッとして三波は、起きあがりざま一士をぶった。

 小気味いい音が丘に響く。一瞬、風がやんだ。――当たった。

 なぜか三波の平手打ちが一士に当たった。自分の行ったことに驚きながら三波は一士を見つめる――彼女の髪が黒い。瞳の色も、だ。一士は〝天眼〟を使っていなかった。つまり甘んじて受けたのである。

「なぜ――」

「わからない?」

「…………」

「……ねぇ、私達はたぶん――というか確実に数冠者入りを果たすわ」

「それはあなただけよ。あなたは、無条件でね。〝天眼〟のお嬢さん」

 三波の言葉に一士は苦笑した。

「たしかに私はあなたにないものを持ってるわ」

「そう、能力、をね」

 三波はどこまでも辛辣であった。一士はさらに苦笑を濃くし、

「でも、私はおそらくそれ以外を得ることはできないのよ――この能力に縛られてね。この前偶然チャンネルしちゃった〝四つの対なる神〟も、力が大きすぎて、私では絶対に扱い切れないわ。きっと封印すると思う」

「…………」

「だから私はほとんど身動きがとれないと思うの。そこで――あなたには私にはできない、もっと様々なことをやってもらいたいのよ」

「どうして、どうして私があなたのいうことに従わないといけないの?」

 三波のもっともな問いに、一士は真顔で即答した。

「それは――あなたが私と同じだからよ」

「どこが?」

 三波の問いを無視して、一士は一方的に言葉を続けた。

「今、私達は戦いの中にいる。それは戦いを生業とする形成者にとっての宿命だから、私はあきらめてるわ。でも――」

「でも?」

「だからといって私達以降の世代――私達の子供がそうである必要は、まったくないわ。戦いの中にいる必要なんかない。自分達は形成者だから、って言い訳が許される必要なんかないもの。こんな苦労をするのは私達の世代まででもう、充分なのよ。この怨嗟の鎖は、私達の代で立ち切らなくちゃあ、駄目なのよ」

 一士は、民間から見いだされる際に、一族郎党が虐殺の憂き目にあっている。その原因をなにに帰したのか、この時三波は初めてそのことを知った。そして、三波自身も、母親を迫害によって亡くし、遠い親戚を頼ってこの〝天京〟へと移住していた。

「私達の、子供のために……」 

「そう。でも私の武という力だけでは、今までとなんら変わりはしないわ。それじゃあ駄目なのよ、わかる?」

「つまり――ここで、ってことなの?」

 と言って、三波は自分の頭を指差した。

「そう、なにせあなたの方が私より座学の成績いいからね」

 と、一士はすごくいい顔で笑った。その時、三波は不覚にも、いいなぁ、と思ってしまった。

「ほ、」と、口をぱくつかせ、「ほかに誰かいないの?」

「あなたほど頭の切れる人を、私は知らないから」

「ほめてもなにもでないわよ」

「まんざらでもない癖に」

「……そうね、あなたの言葉に従うのは癪だけど、その考えには乗ってあげてもいいかな」

 三波の言い草に、ぷっ、と一士はふきだした。

「なにそれ、もしかして兵八の前でもそんななの?」

「う、うるさい! 今度はグーで殴るわよ!」

「あーやっぱ図星ぃ?」

 一士が逃げる。

 三波が彼女を追いかける。三波は耳まで真っ赤だ。

 風が丘を抜け、ざわざわと新緑の枝葉を揺らす――



 ――居室にて着替えをすませた三波は、主上との謁見に向かった。たとえそれが主上を裏切る結果になったとしても、自らの考えを上申する。三波は一士と約束した。そして彼女はそのことを思い出したのだ。 

 奥内裏へと向かう三波の足取りに、迷いは見えなかった。

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