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 今から一時間前のことだ。〝晴眼〟が行ってしまった。気配を感じて十児は振り向いた。

「――出来の悪い弟を持つと、気苦労が絶えなくて困ります」

 闇に浮かぶ白い顔が、いびつに笑った。人の神経を逆なでするのに充分な嫌味。その言い回しを十児はよく知っていた。

六兄りくけい……」

「ふふふふふ、そぉーです、わたくしはあなたの兄で、数冠者がひとり、さんしょう六部りくぶ!」

 下水道の反響で甲高い声が奇妙にねじれ、歪む。見知った相手であろうとも必ず名乗りをあげるのが、この男の特徴だ。白髪をオールバックになでつけた白い顔が、満足したようにうなずく。

「あんたが、でてきたのか……」

 こちらのうめきを無視して、六部は続けた。

「あなたの存在を、猊下げいかはひどく惜しまれておられる。できるならば生きたまま連れて帰れ、とのたまわれた。ああ、なぁんと慈悲深い!」

「――――。まさか、戻って来いと?」

「戻る気はないと?」

「当たり前だ!」

「ほう、変わりましたなぁ。以前は、そのようなことなど一言も口にできない、意志薄弱の臆病者であったものを。変わりましたなぁ、そう――」

 一拍置き、

「裏切り者に」

「……あんたに言ってもわからないよ。だから僕は何も言わない」

「なるほど確かに。それが井乃原まもる嬢の考えならば、わたくしにはとうてい理解も、共感もできないでしょう」

 六部がいびつに笑った。笑い声は聞こえない。

「やはりあの時――五年と半年前のあの時に、あなたをきちんと殲滅せんめつしておけばよかった。猊下に徒なす不逞なやからともども。――ですが、もう気に病む必要はありません。その必要は、ないのです。なぜならあなたは、猊下のご慈悲をはねのけてしまいました」

 六部がいびつに笑った。耳をふさぎたくなるような笑い声だった。

「これで存分にあなたを処理できる――」

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