第二章 泣きじゃくる子ども、浮かぶ海月、白い顔

1

 五年前。

 清潔で明るい研究室。その部屋の半分を占めるのは大きな試験管で、その中には羊水が満ちており、気泡が浮かんでいた。

 その試験管の中にいるはずの少年は今、私の目の前にいて、いつもなら無愛想な研究員にふいてもらう身体を、自分の手でバスタオルを持ち、ふいている。

「髪の毛――うしろがちゃんとふけていませんよ」

「うるさいなー、わかってるよ。そういう〝晴眼〟のうるさいとこ、僕、嫌いだな」

 背が低く華奢な体躯で、茶色の髪に、緑色をした瞳。頬をふくらませ、むくれている。

 私は、その少年のことをよく知っていた。身長や体重の正確な数値はレーザー計測するまでもなく元視記憶アーキメモリーの記憶野に保存してあるし、隠密索敵の教練で音をたてずに泳ぐのが苦手で、いっつもべそをかきながら居残っていることも知っている。

 そして――半月前の哨戒任務で、殺されかけたことも。

 少年は名を、椒十児さんしょうとうじ、といった。

 形成獣こと独立可動形式の私を、鉄晶核より誘導し、分化させた、マスター形成者だ。そして、私のような独立可動形式は、遠隔操作形式とは自我を持つ点で区別されており、一般に形成獣と呼ばれてマスターより個別名パーソナルネームを与えられる。

 私の個別名は、〝晴眼せいがん〟。

 正しく、はっきりと見通す者、という意味だ。

 外観は、宙に浮いたどでかいクラゲで、その傘の部分にはフジツボのような単眼モノアイが複数ひっついている。

「本当に、よいのですか?」

 私は今日、何度目かの問いを繰り返した。

「もう! さっき言ったでしょ。〝晴眼〟のそういうところが嫌いって。僕はもう決めたんだよ」

 少年は皇師の略式平服に袖を通す。かなりぶかぶかなので袖と裾を二回三回と折りこむ。不恰好だが、これが彼にとっての略式平服だ。

「あ、でも〝晴眼〟はついて来ちゃあダメだよ! 新しい鉄晶核をまもるおばちゃんにもらえば、〝晴眼〟より、もっともぉっとかっこよくて、うるさくないのを誘導するんだから! だから〝晴眼〟を連れて行ったらケンカになっちゃうから、〝晴眼〟は絶対について来ちゃあダメ!」

「なら、ひとりで行くわけですね」

「そうだよ、〝晴眼〟は、」

「マスター! 皇師の中において私には一兵卒としての権限が与えられています。ここでは、私はあなたの所有物ではないのです。ここで私が保安部に連絡すれば、きちんと受理され、あなたは危険因子として脳みそをいじくり回されて、最後には食料センター行きです。――それでも構わないと?」

「……じゃあ、僕はどうしたらいいの?」

「私も連れて行って下さい」

 放っておけるわけがなかった。あなたはまだ、何も知らない。文字の読み書きもできないし、世間一般の常識も知らない。人見知りも、食べ物の好き嫌いも激しいし、この世界で形成者がどのような立場で、井乃原まもるがどこにいるのかも知らない。そして、自分が数冠者ナンバーズとなること――名前に数字を冠することを前提に人工培養クローニングされた形成者ということも知らないのだ。

「えぇー、どうしよっかなぁ?」

 私は待っていた。あなたが生まれる前から、ずっと、ずうっと待っていた。

「なら、この隔壁を開けてあげませんよ」

 あなたは知らない。私のような形成獣にとって、あなたがいったいどのような存在であるのかを。

「そ、それは困るよ、わかったわかった連れてくよぉー」

「では、そちらのコンテナから――」

 あなたの何万倍もの年月を経て、やっと出逢えることができたのだ。

 こんなところで手放してたまるか。

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