3minutes'恋物語

晴丸

第1話 3minutes


『おはよう』

 毎朝、三分間だけ僕らは会話をする。

 僕が通学に使う時間の電車は、途中駅で特急電車の通過待ちで三分間の停車をする。

 前から二両目の一番前のドア。そこで僕と彼女は、その三分間だけ会話をする。

 お互いに登りと下りで反対方向に向かう電車に乗った僕らは、電車の乗車扉越しに窓に字を書いて会話をするんだ。


 きっかけは、彼女が定期を落としたことに僕が気づいて、それを教えたことだった。

 二月の頭。暖房でむわっとする車内で、僕はドアの脇に立ち、そこから外を見ていた。

 次の駅に着くと、待ち合わせのためにすでに停車している向かいの車両で視界がふさがれる。いつものことだ。この電車も同じようにこれから三分間の待ち合わせをする。

 そうしたら目に入ったんだ。対面の下り方向の車両のドアの前に、ちょうど僕と向かい合わせになるように立つ女の子が。

 お、と思った。タイプだった。しかもど真ん中ストライク。

 大人っぽくおとなしめの印象を与える子だった。年齢は僕と同じか年上ってところ。

 クラスで一番かわいい子を決めるアンケートを採ったら三番目ぐらいになりそうな感じの子。図書委員か保健委員をやってて欲しいタイプ。右目尻の泣きぼくろが色っぽい。髪は、軽く肩に掛かるぐらいで、緩い内巻きカールで、もちろん黒髪+天使のリング。

 その子の鞄のポケットから電車の定期が落ちるのが見えた。

 多分、乗り降りするときのために、出し入れしやすいところに入れていたんだろう。

 僕はそのことを知らせようと、トントン、とドアを軽く叩く。

 もちろん、叩いているのはこちらの車両のドアなので向こうに音が届くわけじゃない。けど、気配とかなんだとか、とにかく動いていれば気づくんじゃないかと思って。

 だから、気づいたらラッキーぐらいの気持ちで、トントン、と軽くドアを叩いたんだ。

 彼女は、それに気づいた。びっくりするぐらい簡単に気づいてこちらを向いた彼女と視線がかち合ってしまって、思わず僕は慌てた。

 慌てながらも僕は、不審な顔をしてこちらを見る彼女にむけて、外気との温度差で下の方が曇っているガラスに字を書いた。

『ていき、おちたよ』

 と、向こうから見て正しくなるように、鏡文字で。

 あ、という顔をした彼女は足下の定期を拾って、立ち上がった彼女は、それをこちらに見せるように軽く振ると、

『ありがとう』

 僕と同じようにガラスにそう書いた。

 それが最初。それが出会い。

 同じ時間の同じ車両の同じドアの前に立つ僕らは、自然と目が合うようになって。

 その日から僕らは、その場所で、ドア越しの会話をするようになった。


 会話、と言っても窓越しで、ジェスチャーとガラスに書いた単文だから、内容なんてあってないような、簡単なものだ。

 あるとき彼女の年齢を知って僕は驚いた。

『え、中三? 高こう生だとおもってた』

 驚いたことに彼女は中学三年生で、高校一年の僕より年下だった。

 年上か、少なくとも同い年と思っていたので僕は心底驚いて、そう伝えると彼女は、頬をぷくっと膨らませて怒った顔をして、

『ぴちぴちのJCです! ……ふけてみえます?』

 それからちょっと落ち込んだ顔でそう尋ねた。僕は慌てて首を振った。

『大人っぽかったから』

 ぴちぴちのJCって自分で言う時点で本当に中学生なのか疑ってしまうが、口には出さない。口に出しても聞こえないだろうけど。

『高校生なんですか?』

 彼女にそう聞かれて、うなずき、指を一本立てて一年とアピール。

『中学生かと思いました。こどもっぽいから』

 お返し、とばかりに彼女はそう書いたけど、まだまだ成長期の僕の体はすでに170半ばで、実年齢より上にしか見られたことはない。だから、

『はじめていわれた。ありがとう』

『どういたしまして』

 ムスッとした顔で彼女はそう書くと、クスッと笑った。


 僕らのした会話は、まぁ全然実のない話ばっかりで、

『きょう、さむいね』

『この冬一ばんのさむさっていってました』

 みたいなどうでもいい世間話や、

『じゅけんべんきょう、もうやだー』

『がんばれー』

 みたいな、愚痴。それから、

『このもんだい、わかりますか?』

『もちろん……わ、わかるよ?』

 受験生である彼女に先輩として、宿題や参考書を解いてみせることぐらいだった。

 それでもそんなつまらない会話でも、ドアを挟んでガラスに文字を書いてやりとりすると妙に新鮮で面白かったりして。

 そうやって僕らは毎朝、他愛のない話を続けていた。


「おい、あの子誰だ!? まさか、カノジョ!?」

 ある日の昼休み。弁当を広げていると、隣のクラスで同じ部活の友人が駆け込んできて喚き立てた。まずあの子が、いつの誰かなのかとかをきっちり言うべきだと思ったけど、まぁ十中八九電車で会う彼女のことだろう。

「……違う。ちょっとした知り合いというか」

 言葉を濁す僕を見て、彼は、はぁ? と不機嫌そうな顔をした。

「えー違うのか? めちゃくちゃ笑顔で、お互いに見つめ合ってクスクス笑って話して、バイバ〜イなんて手まで振っちゃってたけど、違うのか?」

「そこまで見てたのかよ!」

「見てた見てた。ちなみにほぼ毎日見てた」

 まさかあのやりとりを友達に見られてるなんて思わなくて、非常にいたたまれない気持ちになる。しかも毎日とか! なんで今まで黙ってたんだこいつ……でも、

「……カノジョに見えた?」

「見えた」

 そっか。と僕はつぶやいた。見えたのか、カノジョに。

「うわぁなんだそのにやけ面! くそ! リア充爆発しろ!」

 ビシ、と背中を叩いて去っていった友人の背を見つつ、僕はむふふ、とにやけた。


 次の日、僕はそのことを彼女に伝えた。

『カノジョとまちがえられたよ』 

 いつもの会話の流れで、そういえばさ、なんて前振りをして「何でもない」「気にしてない」ふりをして、そう書いた。手が震えて、文字がいつも以上に汚くなった。

 その言葉に彼女がどう反応するかで、様子を伺おう、みたいなことを考えていた訳なんだけど……彼女は、え、と驚いた顔をした。

 ダメだ、これは! 瞬間的に、事前に用意していたいい訳を書こうとする。しかし、

『わたしも』

 と、自分を指した彼女はニコッと笑って、

『ともだちが、かれし? って』

 そう書いた彼女の顔はちょっと照れたように赤くなっていた。

 多分その言葉を読んだときの僕の顔は相当にやけていたと思う。

 少しばかり調子に乗った僕はそこでもう一歩踏み込んだ。

『すきなひと、いる?』

 彼女はちょっと悩むように頬に指を当てて、それから、

『気になってる人は』  

 そう書いて、はにかんだ。

『あなたは?』

 君、とは言えなかった。

 正直なところ、僕にはこれまで恋愛経験なんて無くて、彼女に対して抱いているこの気持ちを『好き』と呼んでいいのかすらわからなかった。

 それに、出会ってから二週間程度だ。しかも朝三分、ガラス越しにやりとりするだけ。そのやりとりだけじゃ彼女のことはほとんどわからないのと同じだし、そんな状態で『好きだ』というと、見かけで判断されたんじゃないか、って思われてしまう気がして。

 だから僕は、

『キミと同じ』

 精一杯の勇気を振り絞ってそう書いた……どこが頑張ったかわかりにくいかもしれないけど、あえていうなら『キミ』という言葉を入れたところです。

 キミ、と書いたときの彼女の反応を見てなんかどうにか出来たらいいなというか、その二文字の時点で早とちりした彼女が、『わたしも!』とか言ってくれたらいいなとか、そんな希望を乗せためちゃくちゃへたれな、けれど精一杯の僕のがんばり。

 え、と目を丸くして最初おどろいたようにした彼女は、続く文字を見て、だまされた、と、ちょっとぷくっと頬を膨らませたように見えたけど……ぐ、と。

 両手の拳を握ってファイティングポーズを構えた。頑張ろう、みたいなことだろうか。

 そこで三分が経過して、電車が動き出し、僕たちはお互いになんとなく照れた空気感のまま、バイバイと手を振って別れた。

 彼女の反応を見た結果から言うと、かなり希望的観測が混ざっているけれど、脈アリ、ではないかな……もしかしたらそうかも……そう、だったらいいな。

 結局のところよくわからなかったけど。

 それでも僕の頬は自然とにやけていて、ガラスに映る僕の顔は非常に危ない人だった。

 そんな風に、僕にとって毎日の楽しみを超えて、生き甲斐とまでなっていた朝のその三分は、しかし、あっけなく終わりを告げた。


 ある日のこと。

 いつもの三分が訪れて、けれどそこに彼女の姿がなかった。

 風邪をひいたり、体調不良で学校自体を休んだのか、珍しく寝坊でもしたのかな。

 そう思った僕の目に、ふと座席に座るひとの後ろ姿が目に入った。

 後ろ姿でもわかってしまうあたり、僕が彼女のことをどれだけ見ていたかがわかってしまう気がする。いつもドアの前に立っている彼女は、その日は座席に座っていた。

 珍しいな、やっぱり体調悪いのかな。それともなにかあったのかな。

 こっち見ないかな。

 そう思った瞬間、彼女がこちらを振り返った。そして、釣られるように、彼女の隣に座っていた人——学ランを着た男子もこっちを見た。

「——!」

 二人の視線が僕を捉える前に、僕は慌てて視線をそらした。気づいてないふりをする。

『どうした?』

『ううん、なんでもない』

 横目でそっと伺うと、そんなやりとりをしているのがわかった。

 僕はガラスに右肩を押しつけるようにして、彼女から隠れるように視線をそらした。

 それでも僕はやっぱり彼女が気になって、二人の方をチラチラと伺った。

 彼女は笑っていた。

 隣の男の子と肩をくっつけるように座った彼女の横顔は、それまで僕が見たことのない表情だった。なんていうか『女の子』って感じのする表情だった。

 ああ、あんな顔で笑ったりするんだ。

 そっか。そっか。

 気になるひとはいつの間にか、好きな人にランクアップしていて、さらに親密な関係にあるらしかった。

 バカみたいだった。

 彼女の気になる相手って言うのは、僕なんじゃないか、って浮かれて。普通に考えればそうでないことなんてわかったはずだ。自分でも言ったように、僕らは朝三分会話するだけのそれだけの関係。しかもまだ知り合ってから一ヶ月と経っていない。気になったり、好きになったりなんて、普通に考えてみればあり得ない。

 クラスメイトとかそういう身近な人を好きな方が自然なことだ。

 そんなことに気づけないぐらい僕は、本当にどうしようもないバカだった。


 翌日。

 彼女はいつものドアのところに立っていて、僕を見つけると笑顔を見せた。

『昨日はごめんなさい』

 僕はそんな彼女に曖昧な笑顔を返す。

『ねぼうして、いつもの、のれなくて』

 なんで嘘をつくんだ、とは聞けない。ただ気持ちが、さーっと音を立てて冷えるのがわかった。

『かぜとかねぼうかな、って思ってた。きにしてないよ』

 薄っぺらな笑みを浮かべたままそう書くと、彼女はほっとしたような、複雑な顔をして、気持ちを切り替えるように手を握ると、足下に置いた鞄からなにかを取り出した。

『じゃーん!』

 そう書かれたボードだった。子供の頃よく遊んだ、磁石でなぞると線が書けて、レバーひとつで全部消せるアレ。

『昨日、見かけて買ったんです。便利でしょ? ガラスの曇りへってきましたし』

 得意そうに笑顔を作る彼女と対照的に、僕の気持ちはドライアイスを入れたかのように冷めていた。なんだ、それ、と思ってしまう。だから、

『わざわざ?』

 そんな言葉しか出てこない。その言葉に、彼女はむーっとした。

『わ・ざ・わ・ざ!』

『はずかしくない?』

 な、と彼女の表情が動いたのがわかった。

『窓に書くよりはいいです! 鏡文字にしなくていいからたくさんかけますし!』

 確かに彼女は、そのボードでは漢字を多用していた。

『そうだね』

『ですよね?』

 自慢げにうなずく彼女に、けどそれなら、と僕は鞄からノートとペンを取り出した。

『別にこれで良かったんじゃない? わざわざそんなの買わなくても』

 そう。わざわざ僕とのこの三分のために、そんなもの買わなくたっていい……好きでもないやつとの会話のために、そんなことをわざわざする必要なんて無い。

 ——ッ! ドア二枚を隔てた向こうから、息を呑むのが伝わってきた。

 彼女は、ぐ、とボードを握りしめて震えていたけど、

『バカ』

 ボードいっぱいに書かれたその言葉が、僕らの交わしたやりとりの最後だった。


 それから、僕たちは会話をしなくなった。

 でも二人とも、意地を張るようにいつもと同じ場所に立っていた。たまに視線が合うと、ツン、と彼女は視線をそらした。

 日を重ねるにつれて、僕の中で後悔の念が強くなっていった。彼女とやりとりが出来ないのがつらかった。けれど、どうせ彼女には好きな人がいるんだ、という醜い感情が邪魔をして、謝るようなことは出来なかった。

 素直に言うべきだったのだ。ごめん、と。ただそれだけでよかったのに。

 だけど、僕は、言えなかった。

 それは日を重ねるほどに、どんどん言いにくくなっていって。

 ある日、彼女が定期を落とした。

 それは、彼女が作ってくれたきっかけだったんだろう。僕の考えすぎでなければ、彼女も仲直りを望んでくれていたんだと、そう思う。

 あとは、どっちが先に折れて声をかけるか、だけだったんだと思う。

 そのきっかけを彼女が作ってくれたんだ。

 だけどそのとき、僕はためらってしまった。

 本当は偶然落としただけで、彼女がもう話しかけて欲しくないと思っていたら……。

 そんなくだらない逡巡をしているうちに、彼女の後ろのドアから乗ってきた高校生が定期を拾って彼女に渡した。

 以前、隣に座っていた彼だ。彼女はちょっと驚いたような困ったような顔をして、それから笑顔で「ありがとう」というと、そのまま二人で話し始めた。

 改めて見たその男子は、男の僕でも、素直にかっこいいな、って思ってしまう好青年って感じで、彼女と並んでいる姿はとても様になっていた。

 三分が終わるまで彼女はこちらを一切見ずに、彼と話し続け、電車が動き始めたときにほんの一瞬だけこっちを見て、ツン、とそっぽを向くと彼の服の裾をちょんと掴んで引っ張って座席へと移動した。

 それがトドメだった。

 翌日から、僕はもう話しかけようっていう気持ちすら失ってしまっていて、それでも未練がましくいつもの場所で、同じようにドアの前に立つ彼女の方を見ていた。

 彼女はこちらをチラリとも見てくれなくなった。そして僕がどうにも出来ず、日を重ねるうちに、彼女に「彼」が話しかける頻度が増していった。

『おはよう』 

『宿題やった?』

 多分、僕がしていたのと同じような何でもない会話を、二人はしていたんだと思う。

 次第に親密になっていくそんな二人の姿を見ていられなくて。

 僕は、電車の時間を変えた。

 

「最近どうした? なんか元気ねえじゃん」

「そう……か?」

 ある日、前にカノジョとの関係を冷やかした友達が、僕のところへくるとそう言った。

「カノジョと喧嘩したか?」

 違う。喧嘩ではない。それにそもそもカノジョじゃない。あの子は今頃は多分「彼」のカノジョにでもなっている。ジロッと僕は友達を睨んだ。

「なんだよ。もともとカノジョじゃないし、今はイケメンのカノジョだってか?」

「な……!」

 やれやれ、と友人は肩をすくめて見せた。

「まぁなんつーか、俺も見たわ……まぁ、ありゃ勝ち目ねえわなぁ」

 だったら最初っからそんなこと聞くんじゃねえ、と思うが、それを言う気力もない。

「見た目も圧倒的に負けてるし、イケメンと話してるカノジョさんは楽しそうだったし、お前が凹んであきらめるのもわからなかねーよ」

 けどな、と友人は言った。

「いいのかそれで?」

「…………」

「このまま逃げんのか?」

 友達が、挑発するように言った。

「俺は、お前とカノジョの関係がどんなかだったなんてなーんも知らねえし、あのイケメンとその子の関係も知らねえけどさ……このままだったら、本当に、あのイケメンにその子とられちゃうぜ?」

「とるとか、とられるとか、物じゃないんだから、そういう言い方は——」

「んな言葉遊びはどうでもいいんだよ。本当に好きな相手なら、ビビってねえできちんと気持ち伝えてこいよ」

「……うるせえよ」

 僕は、こちらの目を真正面から見て暑苦しいことを言ってくる友人から目をそらした。

「そっか。邪魔したな」

 はぁ、とため息をついてあきれたようにそう言うと、友達は去っていった。


 その後。友達の行った言葉が、僕の中でずっとぐるぐる渦を巻いていた。

 これでいいのか? って? いいわけないだろ……でも、しょうがないんだ。

 バカな僕はそうやって意地を張って諦めて、ずっとあの電車に乗らなかった。

 けど、彼女への思いは日ごとに増していき、ついに押さえきれなくなって。

 終業式の日、僕は、特急待ちをするあの電車に乗った。


 久しぶりに乗った、この時間の電車。前から二つ目の車両の一番前のドアの前に立つ。

 そして、あの三分が訪れた。

 向かいの車両の、その場所に、彼女はいた。いてくれた。

 僕を見つけた彼女は、目を丸くして、それから慌てて鞄からボードを取り出した。

『あえてよかったです。今日がこの電車に乗るの最後だから』

 そっか、と僕はうなずいた。そして僕も鞄を開けて、そこからあるものを取り出す。

『買ったんですか?』

 彼女が意外そうな顔をした。僕が取り出したのは、彼女の持っているのと同じボード。実は、彼女に謝りたかったときに買っていて、今までしまい込んでいた物だった。

『もう暖かくなって、電車のガラスには書けなくなったからね』

『わざわざ? ノートでよかったのに?』

 あのときのお返し、とばかりに責め立てる彼女に苦笑いを浮かべる。

『そういうきみも、ずっと持ってたんだ?』

『わざわざ、買ったものですから』

 澄まし顔を作る彼女に、思わず僕の頬が緩む。

『受験どうだった?』

 彼女は、笑顔でうなずいて、OKサインを見せた。

『おめでとう』

『ありがとうございます』

 それから僕たちは、しばらく何でもない会話をした。だんだん暖かくなってきたね、とか、花粉がつらくなります、とか。

 本当は聞きたいことも、言いたいこともいっぱいあったんだけど、いざ彼女を目の前にすると、何を聞けばいいのか、言えばいいのかわからなくなって、むしろ、彼女ともう一度会えたことで満足してしまっている自分がいて。

 まもなく電車が発車するアナウンスが流れた。

『それじゃあ』

『うん、また』

 そう書いた僕に、困ったように笑う彼女を見て、その瞬間我に返った僕は焦った。

 違う、違う! なにをやっているんだ! また、はないんだ。今日が最後なんだ。

 ドアが閉まりが電車が動き出す。バイバイ、と彼女が手を振った。 

 このままじゃダメだ。まだ僕は何も伝えていない。このままさよならなんて、絶対に嫌だ。だけど、時間がない。ああ、くそ何を伝えれば——

『好きだ』

 出てきたのは、その一言だった。

 僕はボードにでかでかと書き殴ったその言葉を、動き出した電車ドアに押しつけ、彼女に見せた。

 彼女はその文字を見て、驚いたようなあきれたような、よくわからない顔をして——電車が遠ざかり、それ以上のことはわからなかった。

 どこの高校に行くのか、彼とはどうなったのか、とか聞きたいことはたくさんあったけど、なんにも聞けなかった。自分の気持ちを一方的に伝えただけで、答えさえもらえない。

 それが僕と彼女の別れだった。


 四月。

 学校が始まって、僕はいつものようにちょっと早めの電車に乗る。そして訪れた三分間の停車時間、そこに彼女の姿はない。

 わかっていたことだけど、少しばかり落ち込む。やっぱり高校とか連絡先をきいておけばよかった……そんなことを考えて、ドアに右肩をあずけ、視線を窓から外す。

 そのとき。

 ひらり、と僕の足下に何かが落ちた。拾い上げてみると、それは通学定期。

 そういえば、彼女と話すきっかけも、定期を落としたことを教えたことだっけ。

 そんなことを考えながら、落とし主に教えようと顔を上げて、

「定期、落としました……よ?」

 思わず声が漏れた。そこに立っていた人は、後ろ姿だったけど、僕には誰だかわかって。けど、もう会うことはないと思っていた人で。

「ありがとうございます」

 振り返った彼女は、落ち着いた顔で定期を受け取る。けど、僕はそれどころじゃない。

「な、なんで、君がここに……?」

 戸惑う僕の声に彼女は、定期を示す。定期書かれた行き先は、僕の行き先と同じで、彼女の着ている制服は、僕の学校の女子と同じで。

「おはようございます」

 まさか。そりゃ、彼女の進学先を僕は聞いていなかったけど、そんなまさか——

「今日からよろしくお願いしますね、先輩」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、彼女はそう言った。


fin.



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