太陽と姫君

やまめ亥留鹿

太陽と姫君

 部室棟一階。

 裏口から入り、革靴を脱ぎ捨てて廊下を進む。


 早く会いたい、早く——。

 あの子の柔和で穏やかな、春の陽光のような笑顔が、私を待っている。

 引戸を開け、中に足を踏み入れる。


「わっ、ひめちゃんだ」


 それはきっと、いつまでも永遠に続いていくものなのだと、それが当然の未来なのだと、私は勝手に想像して、期待して、信じている。

 

*****

 

 私、君寺姫子(きみでらひめこ)と幼馴染の日向華凛(ひなたかりん)は幼稚園の頃からの付き合いで、しかし、その関係を単なる“幼馴染”と呼べば、私も華凛も首を振って否定するだろう。

 もちろん、華凛は私の一番の友人だし、ほとんど姉妹同然に育ってきた仲であることにも違いはないが。


 幼い時分から高校二年になった今の今まで、私たちはお互いに一番身近で親しい、いわば人生のパートナーのような関係性で頼り合ってきた。

 私には絶対に華凛が必要だし、華凛にとっても、私という存在がそうであればいいなと思っている。


 華凛は気は弱いが、とても優しい心の持ち主で、笑顔も可愛くて、おっとりとした口調の端々には心を和ませる癒しの響きがある。

 きっとこの子は天使なのだろうと何度思ったことか。

 華凛の言葉を聞けば、どんな悪党だってたちまちに平伏して自らの行いを反省し、生涯に渡って心を改めることだろう。

 

 華凛の所属する華道部の部室へ訪れると、和室の中央で淑やかに座る着物姿の華凛がいた。

 私に顔を向け、


「わっ、ひめちゃんだ」


 とまばゆいばかりの満面の笑みをくれた。

 私の頬も思わず緩んでしまう。

 この笑顔を守るためならば、泥水だって啜れるし、針の絨毯を裸足で歩くことも厭わない。


 上り框に腰をかけ、畳に肘をつく。

 すると華凛が、右手でなめらかに私を手招いた。

 私は遠慮なく、畳に膝を滑らせて華凛のすぐそばまですり寄った。


「今日はお花、生けないの?」

「うん、今日はもうお休みかな、あの子たちのお手入れも終わっちゃったし」


 華凛の視線を追うと、そこには華凛が以前に生けた作品が二つ並んでいた。

 華凛曰く、「そんなにたくさん、頻繁に生けちゃうとお花がかわいそう」だという。

 一度生けた花は完成した作品として決して崩さないし、そのお世話も欠かさない。

 それが、切って生けさせてもらう花への敬意なのだ、と。そんな信条だから、頻繁には生けることができないのだ。

 そして何より華凛は、剣山を使用したり、花に無理な体勢を強いることをひどく嫌っている。


 どれも心優しい華凛らしい主張で、私はそんな華凛が愛おしくてたまらない。

 でも、その考え方を好まない人もいる。華道という同じ道に立つ人、華凛の母上がその最たる例だ。


 華凛はこの学園の中等部に入学すると同時に、それまで学園に存在しなかった華道部を設立した。

 それは、自分の信念を貫くために他ならなかった。決して母上から逃げたわけではない、真正面から向き合ったのだ。

 そのことについて私に相談を持ち掛け、母上に自らの想いをぶつけた時の華凛には、普段の穏やかなあの子とは違う、凛とした美しさがあった。


「そうだ華凛、園芸部の人からいいものもらったんだ」


 私は思い出したように、手に持っていたものを畳に置いた。

 すると、華凛は口に手を当ててクスクスと可笑しそうに笑った。


「やっぱりそうだったんだ。いつまで持ったままなんだろうって気になってたの」


 華凛につられて、私も思わず笑いを漏らした。

 畳に置いた、新聞紙にくるまれたそれを慎重に開く。

 華凛が、わあ、と嬉しそうに手を合わせた。


「ペチュニア、綺麗」


 小さな土色の陶器に、色鮮やかなペチュニアが植えられている。


「生徒会の用事で温室を覗いた時に、華凛に持っていってって渡されたの」

「ありがとう、ひめちゃん。後でお礼言いに行かなきゃ」

「うん、たぶん副部長さんだったと思う。ほら、なんかギャルっぽい人」

長谷はせ先輩だよ。ちょっとひめちゃんと似てるかも」

「え、そうかな」


 腕を組んで、長谷さんの容姿を思い出してみる。

 だが、これと言って共通点も似ていそうなところも思い当たらない。

 性格も、私はどちらかと言えば園芸部の部長さんの方に近いような気がする。


「それよりひめちゃん、生徒会選挙の準備は進んでる? 早く戻らなくて大丈夫?」


 心配そうに眉を下げて、華凛が私の制服の袖をちょんと引っ張った。

 私はおもむろに畳に体を横たえ、正座をする華凛の太ももに頭を乗せた。


「私が華凛のそばにいて悪いなんてことあるもんか。どんな時でも最重要事項だからね。それに、選挙の準備もまったく問題ないよ。私自身も会長選はほとんど信任投票みたいなものだって言われてるし、何も支障はないよ」

「そっか、それならいいけど……さすがひめちゃんだね」


 華凛の白くて柔らかな指先が、私の頬にそっと触れた。

 仰向けになって顔を真上に向けると、華凛の小さな両手が私の顔を優しく包み込んだ。

 華凛の体温が伝わってくる。温かくて心地良い。私にとって華凛は、安心感そのものだ。


 しばらくの間、そうして目を見つめ合う。

 交差する視線を伝って、互いの感情が行き来するような気がする。

 華凛の手が、呼吸に合わせて私の顔を大事に慈しむように撫でる。


 ふと、華凛が目元に悩まし気な陰を落とし、小さくため息をついた。


「ひめちゃんはずっと、皆の“姫君”なんだもんね」


 どこか寂寥を含ませた声音でこぼす華凛に、私は腕を伸ばした。

 私の手が華凛の顔に触れる。

 親指が華凛の下唇の端を撫で、華凛は顔を紅潮させて目を伏せた。


「姫君なんて只のあだ名だし、周囲が勝手にそう呼んでるだけでしょ。私にとってのお姫様は、華凛だけだよ」

「でも、ひめちゃんは——」


 何か言おうとした華凛の首に腕を回し、私は華凛の頭を無理やりに引き寄せた。

 互いの唇が触れ合い、柔らかい感触の中に熱がこもる。

 華凛の髪がさらりと落ちてきて、私の顔にかかった。

 唇を重ね合わせたまま右手で華凛の髪をすくい、そのまま華凛の後頭部を抱え込む。

 華凛が熱い吐息を漏らす度に、離れたくないという思いが増していく。

 次第に、その熱のせいでふたりの身体が唇から溶け合っていくようで……。


「こ、腰が……」


 突然、腰に鋭い痛みが走った。浮かしていた頭を華凛の太ももに戻すと、腰の痛みがスッと和らいだ。


「ひめちゃん大丈夫? もう、変な体勢でそんなことするからだよ」


 熱っぽい目をした華凛が、私の顔を上から覗き込んできた。


「華凛がまた弱気になってたからお薬を投与したんだよ。もう大丈夫?」

「うん、ありがとうひめちゃん」


 そう言って、華凛は穏やかな、まるで春の陽光のように暖かい微笑みを浮かべて、私の頭を慈愛に満ちた手つきで優しく撫でてくれた。


*****


 私は、周囲から“姫君”と呼ばれている。

 別に、やんごとなき王家の血筋を引いているとか、どこかの名家のご令嬢だとか、そんな大層な理由では決してない。

 あだ名の由来はというと、君寺姫子という名前のせいもあるが、才色兼備の私自身に冠して次第にそう呼ばれるようになっていた。


 だがおそらく、私を姫君と呼ぶ人は皆、知らないのだろう。

 私には私のお姫様がいて、そして私が周囲にとっての“姫君”なる完璧な存在となっていったのも、すべてはそのお姫様の太陽のような暖かな輝きを守るためなのだということを。

 それこそが私の生きる喜びであり、生きる理由なのだということを。


 私は彼女という存在がなければ生きられない。

 彼女に“生かされている”と言っても丸っきり見当違いとは言えないかもしれない。

 彼女は愛すべき笑顔で私を照らして、たった一輪の、彼女だけの花としてこの世界に、彼女の隣に生けてくれる。


 彼女だけのために、私は明媚な花であり続ける。

 


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