MISSION 4「殺意の咆哮」

—―― 3/9 09:50 体育館内通路前 ―――


 「バルーン……ハンター……」


 少女が確かめるように声を漏らした。


 「ん? そんなに珍しかったか?」


 男は転がる怪物の死骸を調べていた。腰から引き抜いたナイフで、結晶化した怪物の体組織を削っている。まるでかき氷を崩すように聞こえる爽快な音は、周囲の状況とあまりにもアンマッチすぎる。


「B型か…? にしては色が混ざってるな…?」


 怪物を切り裂きながら、男は小さく呟いた。


 「ニュースとか特番でしか見たことなくて……」


 「あー『ハンター25時』かな。視聴率良いって話だったけどホントだったのか……」


 男が視線をマガジンに向けたまま話す。


 ―—バルーン・ハンター。30年前に人類の前に立ちはだかった高分子化合生物、通称“バルーン”。それを討伐するために構成された、世界特殊生物対策代理機関『BAUM』。その組織に登録された傭兵の総称だ。世界各国で発生しているバルーンによる災害を食い止めるべく、日夜命がけで任務に通り組んでいる……


 というのが番組冒頭に流れたナレーションだ。


 「それにしても危なかったな。危うく君の家族に頭を下げなきゃならんとこだったよ」


 「ああ……そうですね」


 伏し目がちにトオルコは呟く。男に悪気はない。それでもその言葉はトオルコの胸にしこりを残した。


 周りに転がるバルーンの死骸にも驚かなくなった。体育館の通路脇の壁によりかかるように二人は話す。


 体育館は静寂に包まれていた。数分前までは灰色の怪物が跋扈していたここも、今では倒れたパイプ椅子と来客机、引き裂かれた紅白幕が残るだけだった。


 「外傷はなし、擦り傷はあるものの特に問題なしか。なんで立ち上がれなかったんだ?」


 男はトオルコの全身を一瞥して、顔を傾げた。


 「わからないです……転んだのは後ろのアレのせいですが……」


 トオルコは後ろで結晶になった怪物を指さす。


 数分前は、怪物に倒されたまま立ち上がることもできなかった。感覚としては視界がぼんやりとしていて、脳が指示を送っても体が動かないような状態。今まで生きてきて、この状態を経験したのは初めてだ。


 「おっ、もしかして……」


 男がひらめいたように人差し指を立てた。にやにやと笑いながら腰につけられたポーチの中身をまさぐる。プラスチックの袋がこすれるような音。


 ぽとぽととキャンディーが男の手からこぼれる様子を、ぽかんと眺めるトオルコ。


 「ほい、これ食べな!」


 にっこりと笑いながら出したのは、半分ほど残された板チョコだ。


 「う……え? チョコ?」


 トオルコは、銀紙で丁寧に包まれた板チョコをぼんやりと眺める。


 「たぶんだけどさ。君、朝ごはん手抜きしたでしょ?」


 「あ……」


 ——そうだった。朝ごはんは、なけなしのリプトンのミルクティーとチョコクロワッサン。とても健康的とは言えないものだ。もし、おばあに言ったら怒られるのは間違いない。


 「朝食を手抜きして、急激な運動。まあカロリー不足からくる軽い脳貧血だろう」


 具体的なメニューが出ないことで察したのか、男は改めて板チョコをぐいっと前に出した。トオルコは思わず受け取ってしまった。


 「かじりながらでいいから行こう。あまり待たせるとうちのオペレーターに怒られちまう」


 男はフェイスマスクをつけながら愚痴をこぼした。たぶんさっきの無線で聞こえた女性のことだろう。


 「はい、ではいただきます。コウさん」


 小さくお辞儀をするトオルコ。


 「コウでいいよ。今日1日の付き合いだし、気楽にね」


 マスク越しのくぐもった声で男……コウは話した。


 ぱきん、とチョコを割る音が館内に小さく音を残す。口に広がるまろやかな甘さが心地よい。


 美味しい、体が無意識に糖分を欲していたようで、また一口、二口と手が進んでしまう。あっという間に食べきってしまい、手には銀紙だけが残された。


 その様子を満足げに見終わると、コウはマガジンを銃に差し込んだ。澄んだ金属音が体育館に反響する。


 「じゃあ行こうか。立てる?」


 男がゆっくり立ち上がった。こちらに手を差し出している。


 「ええ、もう大丈夫……です。だいぶ落ち着きました」


 トオルコも男の手を握り立ち上がる。華奢な体が、グローブをつけた手に力強く引き上げられる。


 「あーそうだ。一応これつけといて」


 男は思い出したように背中側のポーチから器用に何かを取り出した。


 「ゴーグル……ですか?」


 透明なサングラス……とは違う、フレームとレンズが一体になった安全メガネのようだ。化学実験の時につけたものに似ている。


 「まあこちら側の体裁を整えるためなんだ。つけてもらわないと何かと面倒でね」


 ため息交じりに男は話した。


 「はあ……わかりました」


 面倒なことがある、その理由はいまいちではあるがとりあえずつけることにしよう。


 「協力感謝する。じゃあ行くぞ」


 二人は非常灯の薄い緑の光に照らされた、ほの暗い通路に差し掛かった。通路はまっすぐ出口までに続いていて、約20mほどの距離がある。


 トオルコとコウは、出口までの直線を歩いている。彼を先頭にして歩いていると、少女の頭にふと、何かがよぎった。


 ——何か忘れている。そんな感覚だ。自分の記憶を頼りにその何かを必死に探り寄せる。何だろう、この違和感は忘れちゃいけない何かを忘れているときのものだ。


 最近の出来事で、この感覚を味わったのは確か、大学入試の選択問題で苦しんだあのときか。


 頭を掻きながらその正体を探していると、はっとその正体を掴んでしまった。


 「銀鍵……」


 「ん……どうかしたか」


 心の声がそのまま口に出る。コウは振り返り、マスク越しのくぐもった声で話しかけた。


 「あ……ちょっと忘れ物をしてしまって……戻れますか?」


 無理な欲求とは承知である。それでも聞かずにはいられなかった。


 「ふむ……大事な物……なんだよな?」


 コウはゴーグルを触りながら問い返した。あの館内に戻ってでも取り戻したいもの、そういうことを承知で聞いているのだろう。


 「はい……母の形見といいますか……」


 床に目線を落としながら答える。「ふむ」とコウはつぶやくと首筋に手を当てた。


 「アント1からバタフライ」


 【はい~バタフライです!どうしましたか?】


 機械的なイントネーション、キーと呼ばれていた人だったか。妙に張り切っていると感じるはきはきした声だ。


 「生徒が忘れ物をしたらしい。館内に戻る」


 淡々と話すコウ。そう話しながら足先は館内にむけて歩いていた。


 【ふ~ん。まあB型の発生もひと段落したはずだし、いいんじゃない?】


 どうも彼女は戻る理由には無関心らしい。私は館内に向けて歩き始めたコウに駆け寄る。通路でコウのブーツの音と、私の上履きの音が反響した。


 「ああ、早めに戻る。清掃隊も読んでおけ、早めに片付けよう」


 【バタフライ了解でーす! 『BAUM』仙台支局に清掃隊要請の連絡しまーす!】


 【それはトキワで引き受けますので。隊長、安心してください】


 通話口の相手が入れ替わる。どうもキーという人は会話するとき、たいていあの様子らしい。苦手なタイプだ。


 「ああ、頼んだぞトキワ」


 ほっと安心したようにコウは呟く。


 【まったくもう……今度の反省会は長めにやりましょうね。バタフライ、オーバー。】


 「いつものことさ。アント1、オーバー」


 おーばーという意味はいまいちつかめないが無線の終わりを示す結びの言葉らしい。通信は終了した。


 「本当にすいません。わがまま言って……」


 「気にすんな、大切なんだろう?」


 コウの目線は近づいてきた通路の出口に向いている。そうこうしているうちに館内にまた足を踏み込んだ。


 館内の様相は出た時とさほど変わらなかった。先ほど自分が死を覚悟した出口の周りには結晶化したバルーンの死骸が転がっている。


 鼻をつくのは業務用ストーブから漏れ出た灯油の匂い。倒されたパイプ椅子が遮光カーテンの隙間から漏れた陽光を受けて、ステンレスの脚部を鈍く光らせていた。


 その陽光の先に髪留めがあった。


 「あった……」


 逃げる際に蹴ってしまったのか、倒れた時に見えた位置から、わずかに壁寄りにあったが、壁を照らしている陽光が銀色の髪留めを光らせていたのですぐに見つけられた。


 「あったみたいだね」


 安心したようにコウは話す。


 「はい……ありがとうございます……」


 髪留めをつけると、トオルコの頭に適度な重量感が戻る。


 「じゃあ早く戻ろう。いよいようちのオペレーターがキレちまう」


 「はい…戻りましょう」


 つま先を通路に向ける。その瞬間、空気が震えた。


 ――獣の声だった。


 どの動物かはわからないが、この体育館には存在しえない、獣の咆哮だ。バルーンのものとはまるで違う、大気を震わせる声。


 「タールからか?!」


 コウは私の前に立ち、銃口を前方、校長が倒れた壇上に向けた。


 黒い水面が泡立つ。その中から、大きな物体が浮き上がった。猫の手に近いが、四つの鋭利な爪を持った手は、強烈な殺意をまとっている。


 その足が壇上に爪痕を刻みながら、もう一つの足が水面からゆらりと浮き上がる。


 そして、黒い水面から三つの赤い複眼、その下にはずらりと並んだ白い牙、あらわになった全身像の大きさは5m強。先ほどのバルーンと似た体毛のないのっぺりとした体。


 唯一違うのは、灰色の皮膚から透ける色がオレンジではなく、どす黒い赤であるところだった。


 恐怖で顔がゆがみ、蒸発した汗がゴーグルのレンズを曇らせる。肋骨の内部で跳躍を続ける心臓。トオルコの生存本能が悲鳴を上げていた。


 ――黒い水面から灰色の虎が産声を上げた瞬間だった。


 コウはマスクを汗で濡らしながら、忌々しげに叫んだ。


 「馬鹿な……ジープ級……大型種だと?!」

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