MISSION 2「ガール・ミーツ・ボーイ(?)」
─── 3/9 09:20 ───
体育館に満ちる甲高い女子生徒の金切り声、その声を皮切りに倒されるパイプ椅子。体育館入り口に殺到する保護者と生徒。
ほんの数分前まで、生徒の門出を祝う場であった体育館は、血の匂いと倒された業務用ストーブから漏れ出した石油の匂いがまじりあう地獄となった。
「まずい。これは本当にまずい……」
私も席を立ち、体育館入り口に向かって走り出した。足が震えている。怖い。心臓が口から飛び出してしまいそうなほど、鼓動は速く、短いリズムを刻んでいた。
体育館に反響する悲鳴、悲鳴。
――早く駐車場に……いや校庭の方が……!
――教頭!!それよりも警察を……!
だれもが体育館の外に、体育館よりも遠くにと走り出す。生徒も教師も保護者も押し合いへし合いながら、出口に殺到する。
「いやあああああ……!」
後ろからひときわ高い女性の声が聞こえた。反射的に振り返る。壇上の泡は膨張を続けており、ステージ下の床にまで到達していた。泡の中に光るいくつもの赤い眼。灰色の泡から、さらに4体のバルーンが現れた。そのうちの1体が女性に覆いかぶさる。
同じクラスの世津ケ谷さんのお母さんだ。三者面談の時に母子といた所をすれ違ったのでその顔には見覚えがあった。
だれもその声に振り向かない。私はその場にくぎ付けになった。助けるべきだ。それでも体はびくともしない。汗が頬を伝う。
その刹那、後ろから人が駆け出した。私の髪が舞い上がる。
「どけえええええ!」眼鏡をかけた男性がバルーンの両肩に手をかける。
化学教師の横田先生だ。三年間で特に付き合いはなかったが、理系には思えないガタイのいい先生だ。
勢いに任せて、バルーンを引きはがす。
獲物に食らい損ねた怪物は来賓席のテーブルにたたきつけられた。うめくようにぽっかりと開いた口を開閉させる。世津ケ谷さんはスーツのいたるところが破けていたものの、まだバルーンに噛まれてはいなかった。
しかし、先生の背後に灰色の影。人と異なる髪のない頭がゆらりと近づく。
「ぐわあ?!」横田先生は悲痛な叫びをあげた。
水面から這い出た新たなバルーンは、先生の二の腕に食らいついていた。がっぷりと咥えられた腕からは血がにじんでいる。
「くっそおおお!はなせ!」
バルーンの額に手を当て、力づくで引きはがそうと力む。
その時、トオルコは見てしまった。バルーンと組み合っている横田先生の背後からもう2体のバルーンを。
世津ケ谷さんに這いよる1体のバルーンを。しかも、女性の方は足をくじいたためか、床を這うように逃げるだけだった。
その刹那、脳内で二者択一の選択肢が表示された。
──横田先生(男性)を助けるべきか
──世津ケ谷さん(女性)を助けるべきか
一瞬の葛藤。男性教師に噛みついているバルーンは2人がかりなら引き剥がせるだろう。しかし、その間に2体のバルーンにやられる。
世津ケ谷さんの方はバルーンが1体だけではあるが、私よりも身長のある彼女を運ぶ体力は私にはない。
どちらかを見捨てないと、どちらも救えない。
完全に頭がフリーズした。息が上がる。連動するように小さい肩が上下する。焦点が定まらない。苦しい。
その時、ヒトに備わる生存本能が、脳内に新たな選択肢を提示した。
──逃げるべきだ。
そもそも、私の体格でバルーンにかなうはずがない。逃げろ。目をつむって、耳をふさいで逃げろ。私の眼は10mほど先の体育館入り口をとらえた。いまなら助かる。
第三の選択肢に手をかける。自分だけ助かればいい。脳内で選択肢を選び、2人に背を向けた。入り口に向かって一歩を踏み出す。心の中でぼそりと、ごめんなさいをつぶやいて。
「なにやってんだ!おめーは!」突如、頭蓋の中を祖母の声が反響した。
―――◀◀ Rewind
もともと血の気が多い祖母……おばあではあったが、私に怒ることは滅多になかった。しかし、私との生活の中で、一度だけ本気で怒られたことがある。
それは高校の進路選択の際、相談もせずに進路希望調査のプリントに『第一希望 就職』と書いた時のことだった。その日の夜、居間で高卒向けの就職先をまとめられた資料を読んでいた。それを通院帰りのおばあが見たのだが、テーブルに広げられた資料を見て、怪訝な顔をした。
「おめえさ、それがほんとにしてえことか?」と東北地方特有の訛りのある言い方で私に問いかけた。
「まあ……はやめに仕事していたほうがね。後々楽かなって。将来的にも家計的にも……」私はやや伏し目がちに答えた。
「なにやってんだ! おめーは!」
とても70歳を過ぎた人とは思えない声量だった。
予想以上の怒声に恐れよりも驚きが先に来てしまい、ぽかん口を開けてしまった。
「おめえ前からお金は気にすんなって言ってたべさ! 大学に行くくらいのお金はあるって!」
頭の血管が切れるんじゃないかってくらいに顔を赤くさせていた。普段は見せることのないおばあの一面。全力の怒りであるからこそ、心から話していることだということがわかる。
ふう、とようやく一息ついたおばあは、いつもの表情、しわだらけでありながら鷹のような鋭い目つきの顔に戻り、言い聞かせるように語りかけた。
「自分のやりたいことに嘘つくんでねえよ。やりたいことこそ、やるべきことなんだかんね」
それだけ話すと、ささっと花柄のエプロンに着替え、台所へ向かってしまった。
視界がゆがむ。座り込んだ足にぽろぽろと涙が落ちる。目じりにたまった涙をワイシャツの袖でぬぐい、進路を決めた。クリアファイルから予備の進路希望調査のプリントを取り出す。
翌日、涙でぬれてところどころしみになったプリントを再提出した。第一志望には『大学』とだけ書かれたものを。
―――▶ Restart
改めて、自分に課せられた選択肢を振り返る。
──横田先生(男性)を助けるべきか
──世津ケ谷さん(女性)を助けるべきか
──逃げるべきだ
私は何がしたいのか。逃げる選択肢は論外と決め、残された2択を見つめなおす。
私は……人を助けたい。そして、誰も見捨てたくない。つまり、この3つの選択も違う。答えはこの3つにはない。
答えを掴みかけている感覚がある。でも、この選択肢は生き残る可能性が低い。最悪、ここの3人全員が死ぬことになる。それでも、私はこれを選びたい。そして、絶対に生き残ってやる。
──2人を助け出す
可能性が低いから、私では無理だからと、脳内でまず先に切り捨てられ、選択肢に挙がることのなかった4つ目の選択肢を、トオルコは強引につかみ取った。
「やめろおおおおお!」
横田先生に襲い掛かろうとしていたバルーン2体にパイプ椅子を盾にするように突っ込む。
パイプ椅子の突撃を受けたバルーンは後ろに揺らめく。そのまま、パイプ椅子を押し付ける。軋むパイプ椅子の音が耳障りだ。
「こんのぉぉぉぉぉ!!」思い切り声を張り上げる。
呻きをあげるバルーン2体を、倒れていたストーブにパイプ椅子ごとたたきつけた。漏れ出した灯油に引火したのであろう、バルーンは燃え上がる炎に包まれた。
大気を震わすような低い呻き声。のたうち回る灰色の怪物。焦げた部分からケミカルな、鼻をつくような嫌なにおいがした。
ふと横田先生に目をやる。まだ二の腕を噛まれたままであったが、致命傷には至っていない。
「もう少し耐えてください! すぐに行きます!」
トオルコは新たにパイプ椅子を掴みながら、横田先生に叫んだ。
「わ……わかった!」
噛みついたバルーンに必死に抵抗しながら、横田先生は答える。
私は次の標的に目を合わせる。世津ケ谷さんに今にも襲い掛かろうとするバルーン。
「どけよ! やめろおおお!!」
思い切り振りかぶったパイプ椅子を、怪物の頭めがけてたたきつける。世津ケ谷さんは目じりにたまった涙をぬぐって、トオルコに視線を向ける。
軋んだ金属音が鳴る。べしゃりとバルーンの首が折れ曲がる。バルーンは体の向きを変え、トオルコに複眼を合わせた。直角に折れ曲がった首の先にある、赤い眼が睨んでいる。
背筋に感じる冷たい恐怖。それをかき消すように、もう一度、振りかぶったパイプ椅子で殴りつける。バルーンは低い呻き声をあげながら、来賓席に倒れこんだ。
「世津ケ谷さん! 大丈夫ですか?! 足は?!」
興奮しているせいか、質問が増えてしまう。
「だっ大丈夫……」
額に冷や汗を浮かべている。足首が青紫に変色している。
「ぐわっああっ!!」
後方から悲痛な声。横田先生の声だ。
反射的に振り返る。バルーンの口がさっきよりも深く食い込んでいた。少し離れたここからでもわかるくらいに、先生の額には脂汗がにじんでいた。
「待っててください! 今行きます!!」
持っていたパイプ椅子を投げ捨てて、駆け出す。
横田先生にかみついたバルーンの頭につかみかかる。先生の荒い息が髪をなでる。怪物の肌は陶器のように冷たく、その肌はビニール袋のように滑らかだった。
「くうううっ! ああっ!」
2人がかりの力に負けたのか、腕に噛みついたバルーンは口を離し、私は勢いに任せて後ろの壁にたたきつけた。
壁にたたきつけられた怪物の口が、くぱくぱと開閉する。いびつに並んだ白い歯が、人血で赤く塗られている。
怪物から目を離し、横田先生に駆け寄る。
「先生! 立てますか!?」
横田先生は腕を押さえ込んでいる。押さえこんでいる手のひらには、血がにじんでいた。
「あ、ああ……かじられただけだ……」
私はブレザーを脱いで、傷口にあてがう。
「少し痛いかもですけど……」
傷口をきつく締める。先生はう小さく声を漏らした。紺色のブレザーがじわじわと緋色に染まる様子が見れる。
「ケガしているところすいません。世津ケ谷さんを担ぐの手伝ってください……!」
けが人に、けが人の対応を手伝わせる。なかなかに非道だと思うけど、私一人では足を怪我した世津ケ谷さんを運び出せない。
ならば、まだ足が動く横田先生に運ぶのを手伝ってもらう。あの状況で私が考えた選択だ。
「わ……わかった!」ぎり、と歯を食いしばり横田先生は立ち上がる。
数m先にいる世津ケ谷さんに、私と横田先生は駆け寄る。
「奥さん!腕をこちらに!」
横田先生が駆け寄る。そばにしゃがみ込み、肩に手を伸ばす。
私は右肩を、横田先生は左肩を持ち、世津ケ谷さんはゆっくりと立ち上がった。
出口までは、あと5mほど、開け放たれた鉄製の扉からは肌を刺すような冷たい風。その風は、北側に位置する暗い通路の先に、外への道が確かにあることを証明していた。
「助かった……」
肺の空気全部を入れ替えるように長い溜息をつく。その瞬間、私の右足に何かが引っ掛かった。
「ああっ!?」
前のめりに転んでしまった。冷たい床の感触がひりひりする膝を通して伝わってくる。
「おっおい! 三年!」
私の名前を知らない横田先生が振り返る。
足元に視線を落とす。そこには頭部がストーブの熱で溶けたバルーンが、足首を掴んでいた。どろりとバルーンの体液が複眼を覆う。まるで溶け出したろうそくを垂らすように。
「大丈夫です! 先生!! 行ってください!」
「できるかっ! 生徒を置いてくなんて!」
フロアシート越しに伝わる体育館の床の冷たさが、太ももに伝わる。足首に冷たいバルーンの手が食い込む。
横田先生は足に負傷、たぶん骨折はしていない。それでも腕にまいた私のブレザーから血が滴り、フロアシートに小さい斑点を作っていた。
先生に担がれた世津ケ谷さんは憔悴しきっている。意識はない。突然起こったこの惨状に意識を持っていかれたのだろう。
正直、この状況なにも大丈夫ではない。
「それでも行ってください! 必ず追いつきます!!」
「それでもっ……」
割れた眼鏡から瞳をのぞかせる教師。その眼には焦りと恐怖に満ちていた。どれだけ恐怖に押しつぶされても生徒を想う。トオルコは良い先生だと正直に思った。
――それでも。
「早くいけぇぇぇぇぇ!!」
怒声とも罵声ともとれる大声をもって、その善意を叩き落とした。
「私の選択を……無駄にしないで……」
消え入るような声。足元からじりじりと迫る赤い複眼。
「……すまないっ……!」
トオルコよりも消え入りそうな声で、教師は呟いた。そして、世津ケ谷さんを引きずるように、体育館の出口に向かう。
そして二人の姿は北側の暗い通路に消えていった。
その様子を視界に収める。床には浅葱色のフロアシート。倒れた体を床の冷たさが支配する。
足音が聞こえる。濡れたゴム靴で歩いているような耳障りな足音。何体かのバルーンが私の背後に迫っていることがわかる。
足首を掴んだバルーンが口を近づける。熱で融解した口では人体を咀嚼することは叶わず、ただ赤い複眼をふくらはぎにぺたぺたと押し付けるだけだった。
とても疲れた。でも、逃げないと。
腕に力を入れ、上半身を持ち上げようとする。しかし、体はまた床にたたきつけられる。強烈な倦怠感。大きなけがをしたわけではないはず、なのに体が動かない。
──パイプ椅子を踏みしめる音。その音が近づいてくる。
私の選択は間違っていたのだろうか。あの二人を助けなければ、生き残ることができたのだろうか。
──三つの赤い複眼を持った怪物が迫る。
自身の生命をかけた選択。齢18歳に与えられるにはあまりにも残酷な選択。頬に伝う涙は、悔しさか、悲しさか、それとも怒りから生まれたものなのか、わからない。
──冷たい手が私の体をまさぐる。食べやすい部位がないか品定めするように。
「おばあ……お母さん……」消え入るような声は、体育館の天井に吸い込まれる。
薄く開いた瞼の隙間から鈍い銀色のきらめき。その輝きの先に、倒れた時に落ちたのであろう、母の形見である鍵の髪留めがあった。
遮光カーテンの隙間から漏れた光が髪留めに輝きを与えていた。尊い選択をとった少女は、床に転がった銀色の髪留めを見る。
──露出した太ももに怪物の口が近づく。
少女は最後に口を動かして。
「お父さん……」会ったこともない、顔も知らない父を呟いた。
そして、少女は生きることを放棄した。
──足音が聞こえる。
──暗い通路の方から、一定のリズム。
──堅く、冷たさを感じさせる澄んだ足音。
「どけよバケモノ」唐突に体育館に反響した声。
その声に導かれるように、トオルコは手放しかけていた意識を掴みなおした。
視界が明瞭になる。思考が鮮明になる。声の主はだれか。それを探そうと上半身を持ち上げようとした途端。
「頭を床に伏せろ!動くなよ!」鋭い声で命令された。とっさにうつ伏せになる。
声の主は男性。暗い通路からゆっくり歩いてくる。
次の瞬間、耳元を何かが高速で通過した。連動して、背後で何かがはじける音。足元に視線をやる。
──オオオオオウ……
私を襲おうとしていたバルーンのうち一体が床に倒れこんだ。のたうち回る怪物。軟質な体がパキパキと音を立てて硬化していく。赤い複眼から光が失われ、直感的に怪物が絶命したと感じた。
「10……いや15だな」
ジリジリとゼンマイをまく音。マラカスを揺らすような音が通路に反響する。
──オオオオオ!!!
怪物が暗がりに向かって咆哮を挙げる。共鳴するように、トオルコに群がっていたバルーンの群れは暗がりに叫ぶ。
「アント1、コンタクト!!」暗闇の先からまた何かが高速で撃ち出された。
また一体、怪物が倒れた。怪物は倒れたエサを放棄し、暗がりにゆらりと立ち上がる。
足音が近づいてくる。近づくにつれて、通路にある点滅する非常口のランプに男の姿が照らされる。
「何か……構えてる?」床に伏せたまま、視線だけを通路に向ける。
頭部をかすめる一条の白線。暗がりから違う音が聞こえた。モーターが駆動する音。それと同時に圧縮された空気が撃ち出されるような、軽快な破裂音。
音がするたびに、怪物たちは低い呻きをあげて倒れこむ。一体がトオルコの顔の近くに倒れた。怪物は一部原形をとどめておらず、顔の一部が崩れかけていた。
それはかき氷をこぼした時のような、みぞれがたたきつけられるような音に似て、ひどく爽快に感じた。
足音が近づくにつれて、バルーンはその数を減らし、トオルコの周りには駆逐されたバルーンの死体。そのほとんどが活動を停止し、原形を崩し始めていた。
バルーンの一体が暗がりに突撃する。他のものより早い。怪物は非常灯が点滅する通路に向かって走り出した。
ほどなくして、通路に反響した空気の破裂音。
通路から聞こえた怪物の悲鳴は、トオルコの耳に耳障りな残響を残した。
また足音が近づく。かつかつと床を叩くブーツの音。しゃらしゃらと音を立てる多弾倉マガジン。両肩の反射材が体育館からの光をわずかにとらえて、銀色の光を放っていた。
バルーンの屍を踏みつけて進む男。雪道を歩くような、シャリシャリとした音が通路に反響する。
体育館の光は、まず男の下半身をとらえた。
──濃紺色のごつごつとしたボトムスに灰色のニーパッド。黒いハイカットブーツを履き、両腿には一丁ずつホルスターを携えており、ハンドガンのグリップ部分が露出している。
男が進むにつれて、光は男の全貌を明らかにする。
──上半身は、下半身のものと同じ色の上着を着ている。やや色落ちのある防護ベスト。腰回りには、三つのマガジンが刺さっている。胸元のワッペンには、蟻をモチーフにしたエンブレムが描かれた。
──腕に携えられていたものは、M4A1。タン一色の本体から黒いサプレッサーが露出している。
──頭部にはタクティカルヘルメット。口元は黒いフェイスマスクで覆われ、両目には透明な一眼ゴーグル。レンズの向こうから、鋭い目つきでこちらを見つめている。
トオルコはその様子を、ただ見つめていた。
アクション映画に出てくる特殊部隊のキャラを、そのまま切り抜いたような出で立ちの男だった。男は少女の前に立ち、ひざまずいた。銃を静かに脇に置くと、少女に静かな口調で語りかける。
「よく耐えたな。けがをしていないか?」マスク越しのくぐもった声で男は話した。
トオルコはゆっくりと上半身を起こす。ゴーグルの奥にある青い瞳が、心配そうに見つめている。
「う……大丈夫です。たぶん……」
改めて自分の体を確かめる。ところどころ制服が破けているが、どこも噛まれていない。かすり傷がいくつかあるものの、大きな外傷はなかった。
男が守ってくれた。トオルコにとって、これだけは揺るがない事実だった。
「アント1からバタフライ、どうぞ。」首筋に手を当て、男は誰かと会話するそぶりを見せた。
【こちらバタフライのキーで~す! ガブガブされてませんか? 隊長!】
男の耳元のデバイスから女性の声、無線越しに飛び出してきそうなほどハイテンションな声だ。けどその声色は機械的なイントネーションがある。
【こらっ! 任務中だよキー!! 隊長! また突っ走って!! いい加減その癖直してください!!】
若い女性の声。無線越しに怒声を送る彼女は、真剣に彼を怒っている。というより叱っているようだ。
「わりいトキワ。生存者一名を確保。先ほど出口で確保した二人から聞いた通りだったよ。女子生徒だ。名前は……」
「あっ……透子です。神木透子、三年四組です」
「……名前は、カミキ・トオルコ。三年四組だそうだ」
「目立った外傷はないため、このまま校庭のアント2、アント3に合流する。どうぞ」
無線越しに女性のため息が男の耳をなでる。
【バタフライ了解。アント2と3を体育館方面に向かわせます。】
「アント1了解」首筋から手を離し、男は無線を終了させた。
「あの……ありがとう……ございます」後付けするように、敬語をつける。
「気にすんな。仕事だからな」
鋭い目つきがふわりと柔らかくなる。マスク越しではあるが、笑っているのだろう。
なんとなく、こちらもほっとした気分になった。周りには怪物の屍が転がってはいるなかで、ほっとできる自分の図太さに我ながら感心する。
「あの……あなたは……?」
ふと沸き上がった疑問をそのまま口に出す。
男は、改めてこちらに向き直る。体の向きを変えると同時に右肩にあるワッペンがきらめいた。地球を背景に大きな木が描かれたシンボルマーク。それらを囲う黒いリボンには『BAUM』と白字で刺しゅうされていた。
そして、男はフェイスマスクを外す。べりべりとベルクロがはがされて、男の顔が露わになった。
――― 矢がそこにある。
その刹那、黒髪の少女は何故かそのイメージを確かに認識した。そのイメージを頭でなぞるように、男の姿を見つめる。
矢の羽根ように洗練された体躯が与える印象は質実剛健、トオルコより頭一個分ほど大きく引き伸ばされた身長は、矢のシャフトそのものだった。
輪郭がはっきりした顔つきと、横顔は矢尻のように鋭く研ぎ澄まされていた。すらりと伸びた鼻筋と張りのある白い肌。
トオルコはぼんやりとした違和感を感じながら、年齢は20代前後であると予想した。
そして、鋭い眼光を放つその瞳は青く、夜空を映すかのような濃紺の瞳だった。
様々な複雑な要素が絡み合って、男という存在を成り立たせている。まるで、別の人間から大人と子どもの要素切り出し、器用に継ぎ接ぎしたかのように。
数秒の沈黙の後、男は胸に手を当てて口を開き、自らの所属を少女に述べる。
「俺…いや、私は『BAUM』公認の傭兵部隊『バレット・アント』隊長」
そして、灰色の瞳を見つめ、己に与えられた名を紡ぎだす。
「
──これが、私の人生をひっくり返した男。コウとの初めての出会いだった。
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