第一部「I and air-gun」

一章「最古の青と灰色の少女」

MISSION 1「ガール・ミーツ・バルーン」

 ── 3/9 09:43 ──


 体育館の中心でトオルコは自分の選択に後悔する。引き裂かれた紅白幕、倒れたパイプ椅子を踏みつける灰色の怪物たち。


 紅い眼が私にゆらりと近づいてくる。前も後ろも逃げ場はなくなった。フロアシートが冷たい。床に倒れた私の頬に生温かい涙が伝う。


 私には、ただただ泣くことしかできなかった。



 ―― ◀◀ Rewind.



 ── 3/9 07:00 ──


 足に冷気を感じる。布団から足がはみ出しているんだなあと、夢心地に思う。薄く開いた目蓋の先に鬱陶しい光がある。


 また夢の世界に戻ろうと、布団を深くかぶり、カーテンに背を向けるように寝返りを打つ。が、寝返ったさきにはベッドは続いていなかった。体は重力にしたがって、フローリングの床にごつんと落ちてしまった。


「いたっ」


 まだ桜の咲かない、冷たい冬の冷気をまとったフローリングの床は、夢うつつの体を覚ますには最適だ。そこに頭をぶつけたのなら、もう夢に戻ることはできない。


 朝からさむいなあ。うとうとした頭で考えながら、ベッドから落ちた体を起こす。かろうじて保たれていたパジャマ(といっても中学のジャージだけど)から、一晩かけて蓄えられた暖気が逃げていくのがわかる。体が冷えるにつれて、意識が緩やかに覚醒していく。


 こしこしと、目やにを落とす。静かな部屋に不釣り合いなアップテンポの音楽が流れた。音の主はスマホで、アラームが犯人だった。


 肉親の仇だと言わんばかりに、停止ボタンを叩いた。


 ふと部屋をぐるりと見まわす。


 カーテンのある大きな窓の脇には、本や衣類などの雑貨が雑に放り込まれた段ボールが積み上げられていた。


 よくある2階建てのアパートの一室。六畳ほどの小さな部屋、かつては祖母と暮らした部屋も、3か月前に亡くなってからはずいぶんと広くなった。


 今日の卒業式が終わった後に、ベッドと布団をつめれば引っ越しの準備はひと段落する。


 洗面台に向かった私は少し目やにが残った鼻筋を、冷え切った水道水で洗い流す。洗顔剤はいいや、面倒だし。


 この季節の水道水の冷たさには、自然の悪意がふんだんに詰め込まれているんじゃないかと恨めしく思う。


 水の滴る顔をふと鏡で見る。肩まで伸びた、不自然なほどに黒い髪、ただ灰色の瞳。何年も見続けている私の顔だ。冷水にさらされて、ひりひりと痛む顔面をよそにささっと歯を磨いた。


 この部屋とも明後日にはお別れだなあ、そんな具合に、引っ越しの算段を確認した後に段ボールの山に立てかけてあった制服に身を包む。


 この制服に袖を通すのも今日で最後だった。あれ、なんか別れるものが多くない?と思ったが、3月は別れのシーズン。と、レミオロメンのあの曲を思い出しながらボタンを閉める。


 あっちこっちに跳ね、痛み切った髪をドライヤーの熱風で強引に押し付ける。


 駅前の本屋で読んだファッション誌には、熱風は髪にダメージを与えるとか書いてた気がするけど、あんな丁寧に乾かしていたら時間に間に合わなくなる。


 なんとか抑え込んだ髪を後ろに束ねる。ばあばが生きていたら、もうすこしくらいおしゃれに整えられたのかな。


 そして、制服のポケットから鈍い銀色を放つヘアピンを取り出した。西洋風の鍵をモチーフにしたそれは、母から贈られたものだ。


 右上の前髪をぱちりと止める。黒い髪に鈍い銀色のヘアピンが映える。


 年末のセールで格安でゲットしたダッフルコートを身にまとう。紺色と白のチェック柄のマフラーをきつく結ぶ。くたくたになった高校指定の通学かばんを持ち、ローファーを履く。


 玄関のチェーンを外し、氷のようなステンレス製のドアノブを捻る。


 部屋から外へ踏み出す。途端、冷たくも心地よい北風がマフラーをなびかせた。


 空は快晴。アパートの屋根の隙間からは、洗い立てのシーツのように白い雲と、無色透明な大気が幾重にも重なって生みだした、ため息が出るほど青い空がのぞいていた。


 鉄製の階段を下り、朝霜が解け切っていないアスファルトを歩く。かつこつと、ローファーが奏でる足音が澄んで聞こえる。


 歩きながら、かばんの内ポケットから生徒手帳を取り出す。


    ――宮城県立軸丸高等学校――


      氏名     神木 透子


     フリガナ   カミキ トオルコ


     生徒番号   3年4組16番



 今日で退屈な日々も終わる。ようやくあのクラスから解放されるんだ。そう考えるだけで、2年間味わってきた通学中の憂鬱はだいぶましになった。


 大学に行ったら、もっといろいろな本を読もう、それと苦手だけど友達を作ろう。1か月後の自分に胸を膨らませながら、トオルコは木枯らしが吹きすさぶ冬の住宅街を歩いていく。




 ── 3/9 08:12 ──


 私は朝食をとらずに学校へ向かった。校門をくぐる。昇降口に入る。上履きを確認する。画鋲は入っていない。


 さすがに卒業式の日にいたずらを仕掛けるほどあの子らも暇ではなかったようだ。

 

 そして、階段脇にある自販機でリプトンのミルクティーとチョコクロワッサンを買った。教室に向かう。廊下では女子生徒数人が集まってスマホで記念撮影をしていた。


 その子らは卒業していつまで付き合いが続くのかな。ぼんやり考えながら教室に入った。嬉しいことに、生徒のほとんどは私の存在に気付かずに会話を続けていた。

 先週まで続いていた私への汚物を見るような目線も品切れのようだ。


 自分の席につき、栄養素偏りがちな朝食をとる。クロワッサンに口の中の水分を持っていかれながら、クラスの生徒を観察した。


 生徒はそれぞれ、自分に近い何かを持つ者同士グループに集まり、朝会前の時間を、青春最後の時間を謳歌していた。


 その様子を見て、ただ一人黙々と朝食をとる自分に何も感じなかったわけじゃない。それでも、自分でこうなることはわかっていたし、「ともだち」を作らないで過ごしてきたのは、私なのだから誰かを恨むことはしない。この小さな胸の奥にあるのは、孤独なんかではない。


 ふと沸き上がった寂しさのような感情をクロワッサンと一緒に胃袋に押し込んだ。


 間もなく放送が入り、クラス全員が体育館へ向かう。体育館と本校舎を結ぶ渡り廊下で待機。お行儀良く整列し、入場。


 先頭のクラスが入場すると同時に、パッヘルベルの『カノン二長調』が流れた。定番中の定番とはいっても、式典中にこの曲が流れるとやっぱり何割か増しで高貴さが感じられるし、卒業式でこれよりも雰囲気を盛り上げる曲はそうそうないと思う。


 体育館は様々な音であふれていた。ごうごうと熱風を吐き出す業務用大型ヒーター、保護者や在校生から飽きるほど浴びせられる拍手、先に着席したクラスの生徒が鳴らしているパイプ椅子がきしむ音。


 保護者席では、もう何人かの親御さんが泣いていてハンカチを目に押し当てていた。

 祖母が亡くなっていなかったら、入学式の時にも着ていた、アヤメ色の着物を着た祖母が、ここからでも見えたのかな。


 視界の下半分が涙でゆがむ。意地でも涙を流すまいと、顔を上げ、体育館の天井を仰ぐ。なんとか涙をこらえ、リハーサル通りに担任の合図で着席。冷たいパイプ椅子に腰を下ろした。




 ──  3/9 09:00  ──


 そうして、私の観客ゼロの卒業式が始まったのだが、やけに内容はあっさりしていた。1人が挨拶をして、1人がステージから降りる。1人があいさつして、また降りる。


 次は校長の式辞だ。たぶん一番退屈だろうなあ。


 ――春の陽気を感じる晴れの日に……


 ――これから皆さんは新しい舞台で……ッハア……


 ――このまな…学び舎で学んだことを……ゴホッ

 

 壇上で話す校長に違和感を覚えたのはその時である。妙に息づかいが荒い。それに、かなり離れたここからでもわかるくらい顔色が悪い。青ざめているを通り越して白よりの灰色だ。


 そして校長は、顔を伏せたまま立ちすくんでしまった。


 —―ねえ、あれやばくない……?

 —―校長死んだわ……

 —―保健の飯田先生は……?


 周囲の卒業生もざわつき始めた。保護者席からもひそひそ声が聞こえる。

 

 見ていられなくなったのであろう、教師の一人が壇上に上がった。心配そうな面持ちで、校長の脇に立った。


「校長……? 大丈夫ですか?」


 教師は校長の肩を叩いた。


 次の瞬間、校長の体がした。頭頂部から黒い液体があふれ、全身を覆った。やがて、ろうそくが解けていくようにヒトの形を崩していった。


「ひゃ……ああ!!」教師はその場で腰を抜かした。


 体育館にいたすべての人間が硬直した。人体融解ヒューマン・メルトダウン……まさか、テレビでしか見たことが無かったのに。


 校長がいた所には黒い液体の池が生じ、卸し立てのスーツと校長のものと思われる人骨を残して跡形もなく液状化した。壇上から離れたこの位置からでもわかる、鼻をつく石油に似た匂い。


 黒い水面がゆらりと揺れる。ぷくぷくと泡が生じる。泡は林檎ほどの大きさになり、やがてスイカほどの大きさになった。


 次の瞬間、泡の中から灰色の何かがとびだし、教師の足を掴んだ。それはヒトの腕によく似たものだった。


「わあああああ!」


 教師は何者かの腕を、もう片方の足ではらう。


 泡で覆われた水面から、ひときわ大きな泡が生じた。いや、違う。あれは泡ではなく、頭だ。


 それはもう片方の腕を伸ばし、その頭部をあらわにする。ぎらりと光る目が教師を睨む。


 だ円形の顔には、昆虫の複眼を彷彿とさせる三つの複眼が、三角形を描くようにぎらついていた。水面からもう片方の腕を取り出し、灰白色の上半身を持ち上げる。


 人間の体格に似たそれは、つるりとした灰白色の肌を持ち、ヒトとおなじ五本指の腕を持っていた。肌は半透明で、肌の内側でオレンジ色の体液が循環しているのがわかる。


 そして、液体から生まれた生命が、その姿を大衆の前に晒した。


「う……あ……」


 教師は言葉を失った。



 ──それは、30年前に突如地球上に現れ、人類の脅威として文明を蝕む害獣。プラスチックに酷似した特徴を持ち、地球に存在する生物を襲い続ける未知の生命体。


 ──与えられた名称は、高分子化合生物。通称『バルーン』。



 ゆらりと立ち上がったそれは、壇上で呆然としたままの教師に、複眼の焦点を合わせた。


 走って怪物から距離を取ろうと、意を決したように教師は立ち上がる。しかし、怪物の紅い眼は千鳥足のエモノをとらえた。怪物は教師の肩を掴む。


「うああ!やめろ!!やめっ……」


 ダッチワイフにも似たそれは、教師の左肩に複眼を近づける。怪物のつるりとした顔にぽっかりと穴が開く。


 口と思しき穴には、円周に沿うように羅列した白い牙。蛭を彷彿とさせる円形の顎が、教師の左肩にあてがわれる。


「ぐほっ……ぐぶぅ」


 教師が発した言葉はそれが最後であった。ヒトの声とは思えない低く、短い声。教師の口から赤い液体があふれる。


 血液は怪物の口から採取され、オレンジ色の体内を鮮やかな紅に染めていく。八つ裂きにされた動脈を流れていた血液は、やがて教師の気管に逆流する。


 自らの血で溺れるように、もがく腕は徐々に力を失っていく。


 怪物は十分に味わったと人類に知らしめるように、血塗られた口部を教師の肩から離す。


 ばたりと、こと切れた教師はその生を終えた。

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