54.
「早く乗って!」
慌てて車に滑り込んだものの、紗江の服にはたくさんの雨粒が今にも染み込もうとしていた。手にしていたタオル時のハンカチで拭いてはみるものの、それよりも早く洋服に染み込んでいった。
「向こうが晴れているといいんだけど」
車のギアを入れながら正樹が呟いた。
正樹の思いとは裏腹に、紗江は雨であることを喜んでいた。
「ゴメンね。まさか雨が降るなんて」
「いいの。私は」
紗江が雨を気にしていないようなので正樹はほっとして車を発進させた。
世間一般の三連休を利用しての一泊旅行だった。場所は正樹が決めた。紗江の要望は唯一つ、海が見たいということだけだった。全てを正樹に任せて、紗江はただ雨を待ち望んだ。その願いは叶えられた。紗江の中の黒い華は、雨に濡れて艶やかだった。
紗江が乗り込む前にカーナビゲーションに位置を入力していたのだろう。カーナビゲーションは黙々と目的地への道程を指し示しそのルートを外れることなく正樹は車を操作した。時々高速道路のサービスエリアで休憩を取りつつ、目的地のホテルに到着したのは15時過ぎだった。
そのホテルはちょっとしたものだった。エントランスからの白い大理石は本来なら太陽の眩い光を跳ね返すのだろうが、今日は天井のシャンデリアの光が雨粒の乱反射を受けてそれはそれで幻想的だった。
紗江が夢心地で辺りを見渡していると、チェックインを済ませた正樹が紗江を呼んだ。先頭にポーターが荷物を持って歩き、紗江は正樹の左腕に手を添えてついていった。
ポーターが部屋を空け二人を招きいれる。その部屋はメゾネットタイプで大きな窓からは白いバルコニーと青い海が見えた。
荷物を部屋に運び込んだポーターは簡単な部屋の説明をしたあと、バルコニーに負けないくらい白い歯を覗かせて笑顔で去っていった。
「この部屋…」
「うん。ネットでは見たけど、思った以上だ」
「まさか、こんな部屋だなんて…」
「もしかして、気に入らない?」
「そんな!こんなだなんて思ってなくて…。どうしよう、嬉しい」
「ちょっと探検してみようか」
正樹の提案で二人は部屋の中を探検することにした。
一階には二人には広過ぎるほどのソファーがバルコニーに向けて置かれてあり、薄型のテレビが壁にはかけられていた。壁際には二階部分へ向かう階段があり、部屋の奥には扉が見えた。扉を開けると一泊には広過ぎるほどのクローゼットと、かなり二人で使っても十分なほどの大きいバスが設置されていた。二階部分はベッドルームらしくツインサイズのベッドが二つゆったりと置かれてあり、ここにもソファーが設置され窓の外の景色が見えるようになっていた。白を基調としたバルコニーに出ると、同じく白いデッキチェアーが置かれていて、ゆったりと目の前の海の様子を眺めることができるようになっていた。下を覗くと屋外プールが見え、脇には南国のようにパインツリーが緑を添えていた。もうそれは、日本ではないかのようだった。
「ここはね『日本のエーゲ海』とも言われているらしいよ」
「エーゲ海?」
「そう。晴れていれば海に落ちていく夕日がとても綺麗らしいんだけどね。これじゃ、ちょっと無理かな」
バルコニーから見える空は重く垂れ込めた灰色で、とても太陽の姿など拝めそうもなかった。
「こんなだけど、気に入ってもらえたかな?」
「もう、とっても!」
紗江は弾むように答えた。
絶景のパノラマ、たった二人には豪奢で広過ぎる部屋、側には恋しい相手。どうして気に入らないなどと言えるだろう。
紗江は嬉しさのあまり、その場でくるりとまわって見せた。そんな紗江を見て、正樹は満足そうに微笑んだ。
「さて、部屋で過ごすのと、雨だけど外を歩いてみるのとどっちがいい?」
「一緒に外を歩いてみたい」
紗江は考えることなく答えた。
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