38.

 その電話があったのは、日付が変わってしばらくしてのことだった。


「もしもし、紗江?」


 受話器越しではあるが、久しぶりの正樹の声だった。携帯のディスプレイに表示される緑色の文字で分かってはいたが、それでも声を聞いた途端、紗江の鼓動は早まった。


「お疲れさまです。お仕事、終わったんですか?」

「うん、何とかね。目途がついたよ。それより、ごめんね。こんな時間に」

「いえ、私は、起きてましたから」


 いつもなら布団に潜り込んでいてもおかしくない時間ではあったが、紗江は起きていた。いや、眠れなかったと言ったほうが正しい。


「そう、ならよかった。明日ね、そっちに帰るんだ。それで、逢えないかと思って。大丈夫、かな?」

「はい。私は、全然」


 逢いたかったのだ。待っていたのだ。逢わないという選択肢などあろうはずもなかった。


「仕事、何時に終わる?」

「定時には」

「それじゃ、6時に駅で待ってて。迎えに行くから」

「はい。…あの…」


 紗江の脳裏に昼の出来事が浮かんだ。


「ん?何?」

「…いえ、何でも…」

「そう。じゃ、6時に駅で。楽しみにしてる」

「私も」

「おやすみ、紗江」

「おやすみなさい」


 プツっつと通話が切断され、静かな部屋に不通音が響いた。

 聞きたいことがあった。でも、それを聞くことなど紗江にはできなかった。

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