37.
本来なら外になどいない時間だった。客先にいる先輩からの電話を受けたのが自分でなければ。そして、打合せの資料を届けるように頼まれなければ。いや、ほんの数秒、早くか遅く、そこを通っていれば気づくことはなかったのだ。そう、ほんの数秒。
資料を届けた帰り道、本来ならオフィスの閉じ込められた空間にいるべき自分が自由な世界にいることに、紗江はほんの少し喜びを感じていた。
そんな時、右の頬にポツリと小さな雨粒が当たった。頬に手を当て空を見上げると、青い空に不似合いな小さな黒雲がちょうど頭上にいた。
「やだっ!雨?」
通り過ぎる女性の一人が不意に声を上げ、同じように空を見上げていた。
雨はその一瞬わずかに降っただけで、アスファルトの乾いた色さえも変えることができなかった。
「このくらいじゃ、逢えるわけ、ないよね」
いつしか紗江は雨に焦がれていた。
正樹と逢えなくなって二週間が過ぎていた。この一週間は電話もなく、メールも明け方といっていいような時間に一通送られてくるのみだった。
逢えるわけがない。彼は今、ここにはいないのだから。
紗江は沈んだ思いを振り切るように、真っ直ぐ前を向いて歩き出した。が、いくばも進まぬうちに、人の壁に突き当たった。信号は赤に変わっていた。
オフィスに戻ったらやりかけてそのままになっている仕事をやるだけだ。もちろん納期はあるが、それほど急ぎというわけでもない。今のこのわずかな休息を満喫するように紗江は前を向いた。赤信号で止まっていた車が動き出したところだった。
先頭の車に続いてゆっくりと発進した一台の車に見覚えがあった。その中で夜を明かし、何度か送迎してもらったこともある、黒いセダンタイプのハイブリッド車。助手席にはにこやかに笑う女性と、後部座席には小学校に上がるか上がらないか位の男の子供が二人。そして、運転席には同乗者の様子を気遣いながらゆっくりと車を発進させ、安全に車を加速させていく男性。どこででも見受けられる、羨ましいほど眩しい家族の姿。
「まさ、き…?」
目の前を通り過ぎた車の運転手は、紗江の知っている男に、とても、よく、似ていた。
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